フガジ

アメリカ合衆国のバンド

フガジ(Fugazi)は、1987年ワシントンD.C.で結成されたロックバンド。80年代後半から00年代前半にかけ活躍し、その音楽性、活動姿勢でシーンに大きな影響を与えた。

フガジ
Fugazi
2002年3月のライヴ
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
ジャンル ポスト・ハードコア
インディー・ロック
活動期間 1987年 - 2003年
活動休止中
レーベル ディスコード・レコード
メンバー イアン・マッケイ
ジョー・ラリー
ブレンダン・キャンティー
ギー・ピチョット
旧メンバー コリン・シアーズ

概要・来歴 編集

フガジは1987年にワシントンの自主レーベルディスコード・レコードのオーナーの一人であるイアン・マッケイが中心となって結成された。名前の由来は、"Fucked Up, Got Ambushed, Zipped In"から。ベトナム帰還兵の証言を集めたマーク・ベーカー編『NAM 禁じられた戦場の記憶』(原書初版1981年)から取られたベトナム戦争時の隠語である。


フガジ結成期の活動については、ワシントンのハードコアパンク20年史ドキュメント Dance of Days (Mark Andersen & Mark Jenkins, 2001)に詳しい。[1]

1983年にマイナー・スレットが解散したあと、規模が大きくなり暴力沙汰も日常茶飯事となったワシントンのハードコアシーンにおいて、ディスコード周辺のパンク・コミュニティーが「シーンの中のシーン」という方向性を見出して開始した運動が1985年の「革命の夏」である。人種隔離政策をとる南アフリカの大使館に向けての抗議行動を皮切りに、DIYの手法によるさまざまなメッセージ発信が試みられた。中心となったのは、ライツ・オブ・スプリングやビーフイーターといった、従来のハードコアパンクの枠を超えた音楽性を志向するバンドと、高校生のデイヴ・グロール(のちにニルヴァーナフーファイターズで活躍する)も在籍していたミッション・インポシブルなど若い世代である。イアン・マッケイも、弟アレック[2]が在籍していたフェイスの元メンバーと共にエンブレイスを結成してこれに加わるが、フェイス時代から続くメンバー間の確執は、1986年春、マッケイがジェフ・ネルソンと提携先の英サザン・レコードを訪問している間に修復不能なまでに悪化していた。[3]サザン・レコードのスタジオで音作りを試した録音(後にEgg Huntとしてリリース)の出来が気に入ったマッケイとネルソンは、再びバンドを組むことも検討するが、バンドの不仲に懲りたマッケイは一人でじっくり人選することにし、ビーフイーターから紹介されたローディーのジョー・ラリーと共に、はじめて担当するギター・ヴォーカルの練習を続ける。

ドラムは当初コリン・シアーズ(ダグ・ナスティー)が練習に加わっていたが、ダグ・ナスティーが活動を再開したため、ライツ・オブ・スプリングからベースのメンバーチェンジを繰り返してワン・ラスト・ウィッシュ、ハッピー・ゴー・リッキーとサウンドを変えたバンド活動を続けていたキャンティが呼ばれ、1987年9月3日の初ライブ[4]はこの3人での演奏となった。ハッピー・ゴー・リッキーはニューヨークに引越したベーシストがワシントンに戻ったときのみ活動するという状態で、ピチョトーも10月のライブで飛び入り参加したのを皮切りに、ローディーとして同行し、ステージでのコーラスとダンスを担当するようになった。

 
インディアナポリスで開催された2001年からFugaziのコンサートのためのハンドメイドのチケット、インディアナ州。

1988年1月の初レコーディングは、In Defense of HumansのみがPositive Force DC企画のState of the Unionコンピレーションに採用されたが、このデモテープのコピーはバンド公認で流出した。バークリーのギルマン・ストリート・プロジェクトからの出演依頼を機に4月から初の全米ツアー、ワシントンに戻ってすぐ7 songs EPを録音、9月からのヨーロッパツアーの後、英サザン・レコードで12月にMargin Walker EPを録音と、レコードのリリースに先行してライブを中心とする活動を開始している。ハッピー・ゴー・リッキーの解散で正式にメンバーとなったピチョトーはこのツアーの後、ギターにも参加するようになる。

最初のツアーから物品販売無し、歌詞カードを配布し、モッシュ行為を諌め、ダブ風のリズムセクションに合わせて体を動かすことを勧めるというスタイルが取られ、モッシュするものだけをフロアに残し他の客を全員ステージにあげる(1988年5月スポケーン)など、さまざまな伝説的ライブで知られる。ライブ会場の選択も、公共スペースや美術館などいわゆるライブハウス以外の場所を選び、入場料もできる限り低く抑えるという反商業主義の方針を貫いた。[5]

メンバー 編集

  • イアン・マッケイIan MacKaye) - ボーカル、リードギター
  • ジョー・ラリー(Joe Lally) - ベース、ボーカル
  • ブレンダン・キャンティー(Brendan Canty) - ドラム、鐘
  • ギー・ピチョット(Guy Picciotto) - ボーカル、リードギター

作品 編集

スタジオアルバム 編集

  • リピーター (1990年)
    • CDは"3 Songs"を同時収録。
  • ステディ・ダイエット・オブ・ナッシング (1991年)
  • イン・オン・ザ・キル・テイカ― (1993年)
  • Red Medicine(日本未発売) (1995年)
  • End Hits(日本未発売) (1998年)
  • The Argument(日本未発売) (2001年)

シングル 編集

  • 3 Songs (1990年)
  • Furniture (2001年)

コンピレーションアルバム 編集

  • 13・ソングス (1989年)
    • "7 songs EP"(1988年)と "margin walker EP"(1989年)を一枚にまとめたもの。

サウンドトラック 編集

  • Instrument Soundtrack (1999年)
    • "Instrument: Documentary"のサウンドトラック。

DVD 編集

  • Instrument: Documentary (2001)
    • Jem Cohenの記録映画。

脚注 編集

  1. ^ 著者の一人マーク・アンダーセンは、1985年にPositive Force DCを結成し、ディスコード・レコードと連携してさまざまな市民運動を企画してきた人物である。マーク・ジェンキンスはワシントンのジャーナリスト。
  2. ^ ディスコードの自主制作第一号のティーン・アイドルズ The Teen Idles のEPやマイナー・スレット EPのジャケットの写真で登場する。
  3. ^ ディスコードは、マイナー・スレットのOut of Step(1983年)以降、英サザンレコードと提携。イアン・マッケイはTwenty Years of Dischord ブックレット(2002年)でイギリスのアナルコ・パンクバンド、クラスとの協力関係を提携の理由にあげている。1985年の訪英でクラスと交流したことがイアン・マッケイが菜食主義採用に踏み切るきっかけとなった。
  4. ^ Positive Force DCのState of the Unionコンピレーションの資金作りのための企画の第一回。コンピレーションの収益はさまざまな市民団体への寄付に宛てられた。
  5. ^ 後にビデオ『インストゥルメント』で有名になる、ピチョトーがバスケットボールのゴールからぶら下がるパフォーマンスは、フィラデルフィアのYMCA体育館でのライブである(1988年8月)。

外部リンク 編集