フリードリヒ・カール (ヴュルテンベルク=ヴィンネンタール公)

フリードリヒ・カールドイツ語: Herzog Friedrich Karl von Württemberg-Winnental, 1652年9月12日 - 1698年12月20日)は、ドイツヴュルテンベルク公爵家の分枝ヴュルテンベルク=ヴィンネンタール家(Württemberg-Winnental)の始祖。甥のヴュルテンベルクエーバーハルト・ルートヴィヒの摂政(1677年 - 1693年)を務めた。

フリードリヒ・カール
Friedrich Karl
ヴュルテンベルク=ヴィンネンタール公
在位 1677年11月27日 - 1698年12月20日

出生 (1652-09-12) 1652年9月12日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ヴュルテンベルク公国シュトゥットガルト
死去 (1698-12-20) 1698年12月20日(46歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ヴュルテンベルク公国、シュトゥットガルト
配偶者 エレオノーレ・ユリアーネ・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ
子女 一覧参照
家名 ヴュルテンベルク家
父親 エーバーハルト3世
母親 アンナ・カタリーナ・フォン・ザルム=キルブルク
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生涯 編集

ヴュルテンベルク公エーバーハルト3世とその最初の妻でザルム=キルブルク伯ヨハン・カジミールの娘であるアンナ・カタリーナ(1614年 - 1655年)の間の第13子、七男として生まれた。

 
ヴュルテンベルク公国の摂政体制を示した銅版画、義姉のマグダレーナ・ジビュラ(左)、甥のエーバーハルト・ルートヴィヒ(右)の上位に置かれたフリードリヒ・カール(中央)

1677年11月27日に神聖ローマ皇帝レオポルト1世により兄ヴィルヘルム・ルートヴィヒの遺児エーバーハルト・ルートヴィヒの筆頭後見人(Obervormundschaft)に任じられ、ヴュルテンベルク公国の摂政を務めることになった。1693年1月22日に甥の成人に伴って摂政を退いている。摂政在任中、内政面では特に教会・学校制度の拡充に重点を置いて、領邦の強国化を推進した。1686年、シュトゥットガルトに最初のギムナジウムを設立させている。

外交面では、大同盟戦争に大きく影響された。1688年、エーバーハルト・ルートヴィヒを連れてニュルンベルクへの逃亡を余儀なくされている。1692年にはエーティスハイム(現バーデン=ヴュルテンベルク州エンツ郡)郊外で麾下の4000人の部隊とともにフランス軍の包囲・攻撃を受け、捕虜となってヴェルサイユに連行された。

翌1693年1月に釈放された際、対立関係にあった義姉のマグダレーナ・ジビュラは枢密顧問官たちと謀り、皇帝の許可を取り付けて息子エーバーハルト・ルートヴィヒ(まだ16歳だった)の成人を予定より早く宣言した。

摂政を不当に解任されたことに対する補償として、フリードリヒ・カールは相当額の金銭を贈られた。また皇帝により帝国陸軍元帥の地位を授けられている。1694年よりバーデン=バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムの指揮下で皇帝軍の戦いに参加し、一時は自らも皇帝軍の最高指揮官を務めた。1698年、持病の梅毒の悪化により死去した。

子女 編集

1682年10月31日にアンスバッハにおいて、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯アルブレヒトの娘エレオノーレ・ユリアーネと結婚し、間に5男2女の7人の子女をもうけた。

参考文献 編集

  • Constantin von Wurzbach: Württemberg, Friedrich Karl Herzog. In: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. Band 58. Verlag L. C. Zamarski, Wien 1889, S. 238 f.
  • Harald Schukraft: Kleine Geschichte des Hauses Württemberg. Tübingen 2006, ISBN 3-87407-725-X.

外部リンク 編集

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