フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯)

フリードリヒ・ヴィルヘルムFriedrich Wilhelm von Brandenburg-Schwedt, 1700年12月17日 - 1771年3月4日)は、プロイセンの王族、プロイセン王子(Prinz in Preußen)。ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯。

フリードリヒ・ヴィルヘルム
Friedrich Wilhelm
ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯
在位 1711年 - 1771年

出生 (1700-12-17) 1700年12月17日
アンハルト=デッサウ侯国、オラニエンバウム宮殿
死去 (1771-03-04) 1771年3月4日(70歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯領、ヴィルデンブルッフ城
配偶者 ゾフィー・ドロテア・フォン・プロイセン
子女 フリーデリケ・ドロテア・ゾフィア
アンナ・エリーザベト・ルイーゼ
ゲオルク・フィリップ
フィリッピーネ
ゲオルク・フリードリヒ・ヴィルヘルム
家名 ホーエンツォレルン家
父親 フィリップ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート
母親 ヨハンナ・シャルロッテ・フォン・アンハルト=デッサウ
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生涯 編集

プロイセン王フリードリヒ1世の異母弟ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フィリップ・ヴィルヘルムと、アンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク2世の娘ヨハンナ・シャルロッテの間の長子として生まれた。

1734年、フリードリヒ・ヴィルヘルムは従兄のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の娘ゾフィー・ドロテアを妻に迎えている。辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルムは常に悪ふざけを起こしては廷臣達をてんてこ舞いさせたため、「気違い辺境伯(der tolle Markgraf)」と呼ばれた。また狩猟に情熱を注ぎ、神聖ローマ皇帝カール6世によって神聖ローマ帝国狩猟長官に任命されたほどだった。

フリードリヒ・ヴィルヘルムは自分の持つ小さな領国を大いに改良し美化した。シュヴェート英語版の所領ではシュヴェート城の周囲を美化させ、庭園を改良すると同時に城の領域を拡大させ、城全体の様相は古典主義様式からイタリア様式へと美しく変貌した。フリードリヒ・ヴィルヘルムが1730年代後半に自分の宮廷で小姓として召し使ったフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツは後に義兄フリードリヒ2世の騎兵隊司令官となり、2人の付き合いは生涯続いたが、辺境伯との交際はセイドリッツに決して良い影響を与えなかった。

フリードリヒ・ヴィルヘルムは1771年、魚釣りをした際に重い風邪にかかり、ヴィルデンブルフで亡くなった。息子は皆幼くして死んでいたため、弟のフリードリヒ・ハインリヒが後を継いだ。

子女 編集

妻ゾフィー・ドロテアとの間に2男3女をもうけた。

また、結婚前にゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・イェーガースフェルト(1725年 - 1791年)という私生児をもうけている。

外部リンク 編集

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先代
フィリップ・ヴィルヘルム
ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯
1711年 - 1771年
次代
フリードリヒ・ハインリヒ