プリンケプスラテン語: Prīnceps プリーンケプス)は、古代ローマで「第一人者」を意味したラテン語[1]。複数形はプリンキペス(Prīncipes[2]。その道において最も権威ある者を指して用いられた言葉。特定の官職や何らかの権限をともなった地位の名前ではなく、また公的根拠のある称号でもない[3]

トガ姿のオクタウィアヌス

歴史 編集

プリンケプスは、古代ローマで「第一人者」を意味したラテン語である[3]。その道において最も権威ある者を指して用いられた言葉で、「プリーンケプス・セナートゥースPrīnceps Senātūs元老院の第一人者)[4]」あるいは「プリーンケプス・キーウィターティスPrīnceps Cīvitātis市民の第一人者)」などのように様々な用いられ方をした[3]。プリンケプスは単に「第一人者」という意味の言葉であったから、当然、ローマ以外の第一人者を指しても用いられた。例えば1世紀歴史家タキトゥスは、自著『ゲルマーニア』においてゲルマン人従士団の長をプリンケプスと呼んでいる[5]。また伝説によれば、ローマトゥルス・ホスティリウスローマ王であった時代にアルバ・ロンガを滅ぼし、アルバ・ロンガのプリンキペスをパトリキの列に加えたという[6]

古代ローマ人は、この「第一人者」たちの権威を極めて重視した[7]。古代ローマ人にとって権威は抽象的なものではなく、その資質や実績によって特定の人物に結びつけられる具体的なものでなければならなかった[7]。権威の根拠が個人の資質や実績によるのであるから、「第一人者」たちもまた多種多様な存在であった[7]。古代ローマ人は、例えば法律問題についてならば法学の第一人者の弁に耳を傾けたし、その他の問題についてならばその分野の第一人者の弁に耳を傾けた[7]。古代ローマ人にとって、その道の専門家の意見は、そうでない者の意見より何千倍も重みを持つものであった[8]。こうした「第一人者たち(プリンキペス)」が元老院に集まって政策を決定したのが共和制ローマ共和制であった[9]

現代において最初のローマ皇帝であると一般的に認識されているオクタウィアヌスもまた、彼が書き残した『業績録英語版』の各所において、自身のことをプリンケプスであるとしている[10]。オクタウィアヌスは、義父ガイウス・ユリウス・カエサルのように独裁者として排除されることを警戒し、自身を権力者ではなく権威者(プリンケプス)であると位置づけることによって、『業績録』で「余は権威においては万人に勝ったが、職権においては他の何人にも些かも勝らなかった」と記したような共和政尊重の政治的姿勢の建前を強調したのである[1]。このように共和政的部分が強調されたオクタウィアヌスと後継者たちによる帝政初期の政治体制を、後世の歴史家プリンキパトゥスprīncipātus、プリンケプスによる統治)と呼んでいる[10]

一般に最初のローマ皇帝であると認識されているオクタウィアヌスが自身を指してプリンケプスと呼んでいたという経緯から、しばしばプリンケプスの語が「ローマ皇帝」と意訳されることもあるが、既に述べてきたようにプリンケプスは必ずしも現代でローマ皇帝と呼ばれている人々だけを指して用いられた言葉ではない。また、このような用法においてプリンケプスの語を用いたのもオクタウィアヌスが初めてであったわけではない[11]。プリンケプスは共和政以前から用いられてきた言葉であって、オクタウィアヌスが用いたプリンケプスの用法も共和政期の用語法に則ったものであった[11]。オクタウィアヌスが形成したローマ皇帝権は、プリンケプスの語とは全く無関係なところで形成されていったのである[11]

プリンケプス・セナトゥス 編集

基本的にはケンソルがケンスス(国勢調査)を行う際に指名する。紀元前3世紀末のケンソル、マルクス・ケテグスは、プリンケプス・セナトゥスは現存する中で最も早くケンソルを経験した者を指名するのが伝統であると述べている[12]

脚注 編集

  1. ^ a b 弓削2010、p.153。
  2. ^ 吉村2003、p.126。
  3. ^ a b c 弓削2010、pp.152-153。
  4. ^ 通常、元老院では最も権威があると思われている人物が最初に弁論を開始し、その者の弁論が議論の流れを大きく左右した。この「最も権威があると思われている人物」を指して用いられた言葉が「プリーンケプス・セナートゥース」である。
  5. ^ ハンス・K・シュルツェ 著、五十嵐修 訳『西欧中世史事典 国制と社会組織』ミネルヴァ書房、1997年、27頁。ISBN 9784623027798 
  6. ^ 吉村2003、p.133。
  7. ^ a b c d 木村・鶴間1998、pp.19-20。
  8. ^ 吉村2003、p.294。
  9. ^ 吉村2003、pp.126-127。
  10. ^ a b 弓削2010、p.152。
  11. ^ a b c 弓削2010、pp.153-154。
  12. ^ リウィウス『ローマ建国史』27.11
  13. ^ Broughton Vol.2, p.630.
  14. ^ Broughton Vol.1, p.91.
  15. ^ a b Broughton Vol.2, p.562.
  16. ^ a b c Broughton Vol.2, p.563.
  17. ^ Broughton Vol.2, p.555.
  18. ^ a b Broughton Vol.2, p.629.
  19. ^ Broughton Vol.2, p.526.
  20. ^ Broughton Vol.2, p.556.
  21. ^ Broughton Vol.2, p.547.
  22. ^ a b Broughton Vol.2, p.553.
  23. ^ Broughton Vol.2, p.528.
  24. ^ Broughton Vol.2, p.527.

参考文献 編集

関連項目 編集