ヘリオス航空522便墜落事故

2005年にギリシャで発生した墜落事故

ヘリオス航空522便墜落事故(ヘリオスこうくう522びんついらくじこ、Helios Airways Flight 522)は、2005年8月14日ギリシャで発生した航空事故である。キプロスの新興格安航空会社ヘリオス航空522便の乗客と乗員あわせて121名が全員死亡した、ギリシャ航空史上最悪の事故であった。与圧システムの異常による酸素欠乏で操縦士が意識不明となり、機体はオートパイロットで飛び続けた後、燃料切れでグランマティコギリシア語版村近くの山間部に墜落した。

ヘリオス航空 522便
事故の3日前に撮影された事故機
出来事の概要
日付 2005年8月14日
概要 機内の減圧に伴うパイロットの意識喪失、燃料切れ
現場 ギリシャの旗 ギリシャ上空
乗客数 115
乗員数 6
負傷者数 0
死者数 121(全員)
生存者数 0
機種 ボーイング737-300
機体名 Olympia
運用者 キプロスの旗 ヘリオス航空
機体記号 5B-DBY
出発地 キプロスの旗 ラルナカ国際空港
経由地 ギリシャの旗 アテネ国際空港
目的地 チェコの旗 ヴァーツラフ・ハヴェル・プラハ国際空港
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522便の飛行地図

ギリシャ政府の高官は、事故の翌日に「事故機があと5分飛行してアテネの市街地上空に到達したならば、市街地への墜落を避けるために戦闘機に撃墜させるつもりであった」と発言した。

事故当日のヘリオス航空522便 編集

機長のドイツ人パイロットは繁忙期のための契約パイロットだが、1970年から21年間インターフルークに勤務しており、35年の経験と16,900飛行時間(ボーイング737の操縦経験は5,500時間)を持つベテランだった[3]

副操縦士のキプロス人パイロットは過去5年間ヘリオス航空に勤務しており、7,549飛行時間(ボーイング737の操縦経験は3,991時間)を持つベテランだった。

事故の経過 編集

 
ボーイング737-800の与圧設定パネル(写真下部)。右下のノブが与圧システムの設定スイッチで、この写真では自動(AUTO)に設定されている。

当日の早朝、機体がロンドンから到着した後に、前の乗務員は凍ったドアシールと右後部サービスドアから来る異音を報告し、ドアの全面検査を要求した。これを受けて、地上整備員はドアの検査に加えて与圧漏れ検査を行った。この検査の際に地上整備員は、エンジンを停止させた状態で検査を実行するため、与圧システムを「手動」に設定したが、完了時に「自動」に戻さなかった[4]

522便の乗組員には、1.飛行前の手順実行中、2.発進後チェック中、3.離陸後チェック中と、与圧システムの状態に気付くチャンスが3回あったものの、全てのチェックにおいて、気付くことなく見逃してしまった。こうして522便は与圧システムが「手動」に設定されたまま離陸した。離陸時、機体後部に位置する圧力調整弁[注釈 1]は開いたままになっていた[5]

このため機体の上昇につれ、客室内の気圧は徐々に低下した。12,040フィート(3670 m)の高度を通過した時に、機内高度警告音が鳴り、乗組員に上昇を停止するように促した[6]。しかしその警告音は離陸設定警告と全く同じ音であったため、彼らは誤作動によるものと思い込んでいた[6]

次の数分間に、コックピットのオーバーヘッドパネルに幾つかの警告灯が点灯した。冷却警告灯が点灯し、冷却ファンを通る空気の流れが少なくなったこと(空気密度の低下の結果)、およびマスター警告灯が点灯した。機体が高度約18,000フィート(5500 m)に達した時に、客室内の気圧低下に伴い自動的に酸素マスクが落下し、酸素ランプが点灯した[7][8]

機長はヘリオス航空に連絡し「離陸設定の警告灯が点いている」「冷却系は正常で予備系は切っている」と報告した[9]:4。さらに機長は地上整備員に「冷却換気ファンのランプは消えていた」と繰り返し告げた[10]:4。この整備員は与圧漏れ検査を実施した本人で、機長に対して「与圧システムが自動モードか確認できるか?」と尋ねたが、既に酸素欠乏症に陥っていたのか[注釈 2]、機長はこの質問を無視して「機器冷却系回路のブレーカーは何処だ?」と尋ね返した[9]:5。これが事故機からの最後の交信となった[9]:125

522便は、約34,000フィート(10,000 m)に達し、 FL340で水平になるまで上昇を続けた。 ニコシアATCは9時30分から9時40分の間、何度も航空機へのコンタクトを試みたが、成功しなかった。 同機は09時37分、アテネATCと連絡が取れないまま、キプロス飛行情報地域(FIR)からアテネFIRへと移った。10時12分から10時50分の間、管制官は19回にわたって呼びかけを行ったが、全て無反応に終わった。10時40分に航空機はアテネ空港のホールディングパターンに入り、以降70分間、オートパイロットの管理下でホールディングパターンのままだった[11]

10時53分にエリアコントロールセンターが緊急事態を発令し、ギリシャ空軍第111戦闘機隊のF-16戦闘機2機が、Nea Anchialos空軍基地からスクランブルをかけて522便に向かった[12]。11時23分に522便に接近した戦闘機隊は、副操縦士が操縦席で動かずに倒れ、機長席が空いていたことを報告した[13]。客室には酸素マスクが降りており、マスクを装着した乗客も座席で動かずにいた[9]:18

11時49分、男性客室乗務員が、機内の酸素供給装置を使用して意識を保ったまま、コクピットに辿り着き、機長席に座った。男性客室乗務員はF16に対し非常に短い時間手を振ったものの、彼がコクピットに入った直後に、左のエンジンが燃料の消耗により停止したことで、機体はホールディングパターンを離れて降下し始めた。 左エンジン停止から10分後に、右エンジンも燃料切れによって機能を失った[14]

12時04分に、522便はアテネから40 kmに位置するグランマティコ村付近の山間に墜落し、乗員乗客121名全員が死亡した[15]

事故後の捜索活動で、118人の遺体が回収された。乗客の目的地はアテネまでが67人、残りはプラハへ向かう途中だった。乗客リストには大人93人の他に子供22人が含まれていた。

国籍 乗客 乗組員 合計
  キプロス 103 4 107
  ドイツ 0 1 1
  ギリシャ 12 1 13
合計 115 6 121
日付:2005年8月14日
東ヨーロッパ夏時間(UTC + 3)で表示
時刻 出来事
09:00 出発予定時刻
09:07 ラルナカ国際空港
09:12 機内高度警告が鳴る
高度12,040フィート (3670 m)
09:14 パイロットが空調の問題を報告
09:20 乗組員との最後の連絡;
高度28,900フィート (8809 m)
09:23 現在高度34,000フィート (10,400 m);
恐らく自動操縦
09:37 522便がアテネの管制領域に入る
ニコシアATCからアテネATCに、無線が通じなくなった事が通知された[16]
10:12–10:50 アテネATCからの呼びかけに応答なし
10:45 アテネ到着予定時刻
10:53 緊急事態発令[17]
11:05 2機のF-16戦闘機がNea Anchialosを出発
11:24 F-16戦闘機がエーゲ海、ケア島上空に到達
11:32 F-16戦闘機は副操縦士が意識を喪失していることを確認
客室には酸素マスクが降りているが、テロの気配はなかった
11:49 F-16戦闘機がコクピット内に人影を確認
その人物は機体のコントロールを取り戻そうとしているように見えた
11:50 左エンジン停止
11:54 コクピットボイスレコーダー(CVR)が2回のMAYDAYメッセージを記録
12:00 右エンジン停止
12:04 墜落

調査 編集

 
尾翼部分の残骸

フライトデータレコーダーとコックピットボイスレコーダーは、分析のためにパリに送られた[18][19]。CVRの録音を聴いた同僚により、飛行機を救おうとして操縦席に入った人物が、男性客室乗務員であったことが確認された。彼は「メーデー」と5回呼んだが、無線の周波数はアテネではなくラルナカに合わせられていたため、アテネATCには届かなかった[20]

墜落現場で発見された遺体の多くは、男女の見分けも付かない程に焼け焦げていた[21]。解剖の結果、衝突時には全員が生存していたことが判明した[22]

客室内への酸素供給は、化学式酸素発生器により酸素マスクを通じて12分間行われる。これは通常であれば、健常人であれば問題無く呼吸可能な高度である10,000フィート(3000 m)への緊急降下には充分な供給可能時間である。しかしパイロット達が既に意識を喪失していたため降下は行われず、やがて酸素が尽き、客室にいた乗員乗客も眠るようにして意識を失った。低酸素症の自覚症状は少ないため、客室に大きな混乱はなかったことが判明している。

しかし一人の男性客室乗務員だけが、この絶望的な状況にあっても意識を失うことがなかった。ボーイング737には、有事に際して乗務員達が行動するために座席数よりも多い酸素マスクが備え付けられている。酸素マスクが降りていながら降下が行われないことで異常を察知した彼は、これを利用して酸素を補給しながらコクピットへ向かった。彼にはキプロス共和国でダイバーや特殊部隊員を務めた経験があり、鍛えられた体力と対応力が彼の行動を支えたことが推察された。しかし操縦室扉の暗証コードを知らされていなかったため解除に手間取り[注釈 3]、機内に複数設置されている予備の酸素ボンベも使用しつつ操縦室に入った。彼は機長と副操縦士が昏倒していることを確認し、酸素ボンベの1本を副操縦士に吸わせて気付けを試みたが、副操縦士は回復しなかった[23][2][24]

男性客室乗務員はパイロット志望で、英国の事業用操縦士資格[注釈 4]を持っていたが、ボーイング737操縦のための技能は不足していた。また酸素欠乏症による思考力、判断力の著しい低下により、メーデーの発信とF-16のパイロットに合図を送ることが精一杯だった。皮肉にも、これが彼の夢見た操縦席での最初で最後のフライトだった。機体はオートパイロットにより旋回を続けた後山中に墜落し、辛うじて市街地への墜落は回避された[24]

事故原因 編集

ギリシャの航空事故調査および航空安全委員会 (AAIASB)は、事故の原因は以下の問題の連鎖によると結論付けた[25]

  • 与圧システムが「手動」に設定されていたことがパイロット達に認識されなかった。
  • 問題の本質を乗組員が識別できなかった(見えにくい表示ランプ、警告音が使い分けられていないなどシステムの欠陥による警告の誤認)。
  • 低酸素状態による乗組員の無力化。
  • 最終的な燃料不足。
  • 地面との衝突。

事故の予兆 編集

「オリンピア」には墜落事故の予兆というべき事態が起こっていた。2004年12月16日、ワルシャワからのフライトの途中に、機内圧力が急速に減少したため急降下していたのである。この時、客室乗務員は、後部サービスドアからの衝撃音があり、ドアのシールに手の大きさの穴があると報告していた。

キプロスの航空事故・事件調査委員会 (AAIIB)はこのインシデントの原因を特定できなかったものの、1.圧力調整弁の開放を引き起こす電気的故障、2.または後部サービスドアの不注意による開放という2つの可能性を挙げている[26]

乗客からはエアコンの不具合について苦情が出ており、事故前の10週間の間に、オリンピアの環境制御システムは7回の修理ないし点検を受けていた[27][28]。また、墜落事故の犠牲となった副操縦士の母親は、息子が航空機が寒くなるとヘリオスに繰り返し訴えていたと主張している[29]

事故後 編集

ヘリオス航空は2005年8月29日、所有する機体の安全性が確認されたと発表した。その後、「Helios Airways」から「αjet」に社名を変更して運用を続けた。しかし、キプロスの当局が同社の航空機を拘束し、約1年後に同社の銀行口座を凍結した。ヘリオス航空は2006年10月31日に業務を停止すると発表した。

2011年3月に、アメリカ合衆国の連邦航空局は Airworthiness Directives (ADs、耐航空性改善命令) を発表した。アメリカ合衆国で登録する-100から-500モデルまでの全てのボーイング737型航空機に、2014年3月14日を期限として2つの追加コックピット警告灯を取り付けることを義務付けた。これらは、離陸構成または与圧システムに問題があることを示すものだった[30]

事故周辺の騒動 編集

  • 事故機があと5分間飛行を続けていた場合、アテネ市街地への墜落の危険を回避するために撃墜命令を出す態勢にあったことを8月15日にギリシャ政府高官が明らかにした。またキプロス政府およびギリシャ政府は、本事故の発生を受けて3日間の喪に服すことを決定した。
  • 事故を起こしたヘリオス航空は、事故機の乗客名簿を6時間経過しても公表出来ないという不手際があり、家族が同社の事務所に入ろうとして小競り合いになった。また事故の翌日にはブルガリア行きの同社便への乗務を乗員が拒否し乗客もキャンセルする騒ぎが起きた。そのため同社はボーイング737の運航を中止し、それに伴い路線を縮小することになった。事故が発生したプラハ線は廃止された。同社は翌年11月に他社に事業を譲渡し運航停止に追い込まれた。
  • 事故発生当初の報道は様々な事故原因の憶測が錯綜しており、「アテネの管制官に機内の温度が急低下した旨を連絡した後に消息を絶った」、「パイロットの1人が体調不良を訴えていた」、「1名の乗客が携帯電話のメールで機内が冷たく身体が冷え切っていることを伝えてきた」、「回収された遺体は内部まで凍っていた」、「墜落時には全員が凍死か窒息死していた」などの情報が流されていた。そのうち、メールはイタズラ目的で流したニセ情報であることが判明し、ギリシャ当局は32歳の男を逮捕した。この男は後に裁判で、懲役6か月・執行猶予3年6か月の有罪判決を受けた。

映像化 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 与圧制御板(cabin pressure control panel)、与圧制御器(cabin pressure controller)と共に、客室与圧調整系統を構成する装置である。エンジンにより加圧された空気は圧力調整弁から排出されるが、その開度を調整することで機内の気圧は保たれている。客室与圧調整系統
  2. ^ 酸素欠乏症に陥ると、意識を失っていなくとも、本人が自覚しないままに判断力が鈍ることが知られている。
  3. ^ 扉を破壊した形跡はなく、コードを入力して解錠したとみられている。
  4. ^ キプロス共和国はイギリス連邦加盟国であるため、キプロス出身者はイギリス人と同じ条件でライセンスを取得できる。

出典 編集

  1. ^ a b 737 Production List Data”. Planespotters.net. 2018年6月1日閲覧。
  2. ^ a b Flight Attendant Tried to Save Cypriot Plane - Aviation Pros”. 2019年1月21日閲覧。
  3. ^ Two trying to save jet ID'd”. News24 (2005年8月16日). 2009年1月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年1月7日閲覧。
  4. ^ AAIASB final report, section 3.2.3, p. 159 (PDF page 171 of 198)
  5. ^ AAIASB final report, section 1.16.2, p. 66 (PDF page 78 of 198)
  6. ^ a b AAIASB final report, section 2.2.4, p. 121 (PDF page 133 of 198)
  7. ^ AAIASB final report, section 2.2.4, p. 122 (PDF page 134 of 198)
  8. ^ AAIASB final report, section 1.1, p. 5 (PDF page 17 of 198)
  9. ^ a b c d Air Accident Investigation and Aviation Safety Board (AAIASB) (2006年11月). “Aircraft Accident Report: Helios Airways Flight HCY522 at Grammatiko” (PDF). http://www.aaiasb.gr. Air Accident Investigation and Aviation Safety Board (AAIASB). 2018年9月閲覧。
  10. ^ AAIASB 2006, p. 4.
  11. ^ AAIASB final report, section 1.1, pages 5–6 (PDF pages 17–18 of 198)
  12. ^ “Helios Crash: Background information”. Famagusta Gazette. http://famagusta-gazette.com/helios-crash-background-information-p237-69.htm 2012年7月22日閲覧。 [リンク切れ]アーカイブ
  13. ^ Crash inquiry focuses on oxygen mask use - The New York Times
  14. ^ AAIASB final report, section 2.2.7, p. 127 (PDF page 139 of 198)
  15. ^ AAIASB final report, section 1.1, p. 7 (PDF page 19 of 198)
  16. ^ AAIASB final report, section 1.1, p.5 (PDF page 17 of 198)
  17. ^ AAIASB final report, section 1.1, p.6 (PDF page 18 of 198)
  18. ^ AAIASB final report, section 1.11.1 "Cockpit Voice Recorder (CVR)", p. 39 (PDF page 51 of 198)
  19. ^ AAIASB final report, section 1.11.2 "Flight Data Recorder (FDR)", p. 40 (PDF page 52 of 198)
  20. ^ AAIASB final report, section 2.2.7 "Descent", p. 127 (PDF page 139 of 198)
  21. ^ AAIASB final report, section 1.13.1 "Medical Information", p. 57.
  22. ^ AAIASB final report, section 1.13.1 "Medical Information", p. 57 (PDF page 69 of 198)
  23. ^ AAIASB final report, section 1.6.3.5.2.2 "Passenger Portable Oxygen", p. 32 (PDF page 44 of 198)
  24. ^ a b "Ghost Plane." Mayday
  25. ^ AAIASB final report, section159
  26. ^ AAIASB final report, section 1.18.1.1, p. 102 (PDF page 113 of 198)
  27. ^ AAIASB final report, section 1.18.1.2, p. 103 (PDF page 115 of 198)
  28. ^ "Helios 737 crashed with no fuel and student pilot at the controls" Radar Vector, 21 August 2005
  29. ^ news in.gr – Βεβαρημένο το παρελθόν του αεροσκάφους που συνετρίβη, σύμφωνα με μάρτυρες”. In.gr. 2014年3月13日閲覧。
  30. ^ Hradecky, Simon. “FAA requires separate configuration and cabin altitude warning lights on Boeing 737s”. Aviation Herald. 2011年2月8日閲覧。
  31. ^ 上空1万メートル 史上最大の航空ミステリー 奇跡体験!アンビリバボー 2012年9月6日(インターネットアーカイブ
  32. ^ 世界衝撃映像100連発★命がけの映像SP TBSテレビ
  33. ^ 世界衝撃映像100連発★何度見てもスゴい!SPTBSテレビ

参考文献 編集

  • 加藤寛一郎 『まさかの墜落』大和書房 2007年

関連項目 編集

外部リンク 編集