ペルシア湾呼称問題(ペルシアわんこしょうもんだい 英語:Persian Gulf naming dispute)とは、汎アラブ主義の高揚した1960年代以降にみられる、ペルシア湾の国際的呼称をアラビア湾とするべきだとする一部アラブ諸国による主張と、それに関連した問題である。

Parties to the naming dispute of the water body surrounded by them

概略 編集

 
書籍『ペルシャ湾の名称に関する史料、いにしえの永遠の遺産』

アラビア半島とイラン(旧称・ペルシア)を隔てる巨大なの名称は、国際的にはペルシア湾(Persian Gulf)が正式名称として認知されている。英語圏日本などでは一般にこの湾をペルシア湾と呼んでおり、イランにおいてもこの呼称(ペルシア語:خلیج فارس、ハリージェ・ファールス)が用いられている。

一方、アラブ諸国では汎アラブ主義の高揚した1960年代以降、この湾をアラビア湾(アラビア語: الخليج العربي、アル=ハリージュル=アラビー)と呼ぶようになった。歴史的にイランとしばしば対立関係にあるアラブ諸国では、中近東を代表する海域名に特定の国名が冠されるのは好ましくなく、また湾岸周辺地域の住民の多くがアラブ人であるとし、この湾の国際的呼称はアラビア湾であるべきだと主張している[1]。現在の国際名称であるペルシア湾が歴史的経緯に沿ったものであるとしこれを支持するイランと、国際名称をアラビア湾に変えるべきとする沿岸のアラブ諸国の対立は、国際問題となっている。

イランは、「アラビア湾」は政治的に捏造された偽りの名称であるとし、アラブ諸国がこの名称を用いたり「ペルシア湾」の名称を否定することに強く反発している。アラブ諸国は、この湾は過去3000年にわたりアラブのものでペルシアの影響力はサファヴィー朝時代からにすぎず、これを「ペルシア湾」と呼ぶのは笑止だとしている。ただし、アラブ諸国においても歴史学者政治学者らからは、古代から使われてきた呼称は「ペルシア湾」であり、「アラビア湾」という呼称はナセル時代に生まれたものだとの指摘がある。

名称の歴史 編集

書籍『ペルシャ湾の名称に関する史料、いにしえの永遠の遺産』によると「「 ペルシア湾」という呼称は、ストラボンプトレマイオス古代ギリシャ地理学者によって用いられ、以降伝統的に用いられてきた呼称である。7世紀イスラム教が勃興しアラブ人がペルシア湾一帯を支配下に置くが、当時のムスリムの地理学者たちはこの湾を「ペルシア湾」(خليج فارس/Ḫalīǧ Fārs)または「ペルシア海」(بحر فارس/Baḥr Fārs)と呼んだ。アラブ諸国では、1960年代に「アラビア湾」という呼称を用いるようになるまではこの湾をもっぱら「ペルシア湾」と呼んでいた。「ペルシア湾」という呼称はやがてイスラム圏からヨーロッパキリスト教圏に伝わり、ヨーロッパにおいても「ペルシア湾」はこの湾の呼称として広く認識されることになった。」

「アラビア湾」(Sinus Arabicus)という名称は、古代においては紅海の呼称として用いられていた。17世紀のヨーロッパでは、一部の地図でペルシア湾に「アラビア湾」の名称が記されていた。近現代においてペルシア湾を指す呼称として「アラビア湾」が文献上初めて用いられたのは、イギリス秘密情報部職員が1957年に出版した書籍においてである[2]

1534年オスマン帝国バグダードを獲得し、バスラの港がインド洋への入り口になると、ペルシア湾の名称に「バスラ」が冠せられるようになった。ゲラルドゥス・メルカトル1541年の地図で、ペルシア湾を「ペルシア湾、現バスラ海」(Sinus Persicus, nunc Mare de Balsera)と記したが、1569年の地図では「ムサンダム海」(Mare di Mesendin)という名称に変わっている。アブラハム・オルテリウス1570年の地図でペルシア湾を「カティーフ海、旧ペルシア湾」(Mare El Catif, olim Sinus Persicus)とする一方で、ホルムズ海峡を「バスラ海峡」(Basora Fretum)と記した。1667年フランスジョラン家英語版が作った地図では、ペルシア湾を「アラビア湾」(Sein Arabique)と記した。このような混乱もあってか、ペルシア湾の名称は17世紀のうちには旧来からの「ペルシア湾」に落ち着いた。トルコでは現在もペルシア湾を「バスラ湾」(Basra Körfezi)と呼ぶ場合がある。

オスマン帝国の地図には、ペルシア湾を「アジャム湾」と記したものもある。「アジャム」とは本来は非アラブ圏のことだが、通常はペルシアを意味する。

1840年ロンドンで発行された「Times Journal」では、ペルシア湾は「イギリス海」(Britain Sea)と呼ばれたが、この名称が他で用いられることはなかった。

国際水路機関発行の「大洋と海の境界(第三版)」では「イラン湾(ペルシア湾)」(Gulf of Iran (Persian Gulf))という名称が用いられている[3]

1979年イラン革命が起こりイラン・イスラム共和国が成立すると、ペルシア湾の新たな呼称として「イスラム湾」あるいは「ムスリム湾」を用いようとする動きが起こり、イラン政府内でも一部で「ムスリム湾」を推す動きがあった。しかし、直後にイラン・イラク戦争が始まるとこれらの動きは無くなった。

イランとイラクを除くペルシア湾岸諸国が結成した国際機関の名称は湾岸協力会議(「Cooperation Council for the Arab States of the Gulf)であり、「ペルシア湾」の名称は入らず単に「湾; the Gulf」となっている。また、かつて湾岸3か国が出資して設立された航空会社の名称はガルフ航空であり、「ペルシア湾」に代わり「ガルフ」が代用される場合がある。

写真ギャラリー 編集

Persian Gulf or equivalent 編集

脚注 編集

  1. ^ ペルシャ湾の名称に関する史料、いにしえの永遠の遺産.
  2. ^ United Nations Group of Experts on Geographical Names Working Paper No. 61, 23rd Session, Vienna, 28 March – 4 April 2006. Retrieved October 9, 2010.
  3. ^ 「大洋と海の境界(第三版)」(Special Publication No.23) Archived 2012年12月2日, at the Wayback Machine. No41が該当海域

参考文献 編集

  • ペルシャ湾の名前に関する文書、[1]

関連項目 編集

外部リンク 編集