ポール=エミール・ボッタ

ポール=エミール・ボッタ(Paul-Émile Botta、1802年12月6日 - 1870年3月29日)は、フランス外交官考古学者アッシリア学の草分けで、1843年にコルサバード(ドゥル・シャルキン)のサルゴン2世の王宮を発掘したことで知られる。

生涯 編集

ボッタはトリノで生まれた。トリノはサルデーニャ王国の中心都市だったが、当時ナポレオン戦争下でサルデーニャ王国は(サルデーニャ島以外)フランスに併合されていた。ボッタの父で歴史学者のカルロ・ボッタはフランスに亡命していたことからフランス側についており、戦後は祖国から処罰されることを恐れてフランスの市民権を得た[1]

1826年から1829年にかけて、ボッタはデュオー=シリー(フランス語版)による世界探検に同行した[2]

アレクサンドリア領事に就任中、エジプト、イエメン、リビアを旅行した。

1842年にモースル領事に就任した。イギリスクローディアス・リッチ英語版大英博物館にもたらしたメソポタミアのコレクションに深く印象づけられたボッタは[2]アジア協会ユーリウス・モール英語版とともにモースルの発掘計画をたてた。はじめ、リッチによってニネヴェの跡とされたクユンジクの発掘を開始したが、その後にコルサバードに移り、そちらで成功をおさめた。これはメソポタミアの最初の考古学的発掘だった[2]。ボッタの発掘にはフランス政府によって予算がつけられ、出土物は画家のウジェーヌ・フランダンフランス語版によって絵に描かれ、全5巻からなる報告書『ニネヴェのモニュメント』(Monuments de Ninive, 1849-1850)が作られた。報告書の題はボッタがコルサバードこそ古代のニネヴェであると考えためであるが[2]、後に誤りであることがわかった。

出土物には今もルーヴル美術館に展示されている有名な有翼人面牡牛像などのほかに、楔形文字の粘土板もあり、楔形文字の初期の解読に材料を提供した。ボッタは楔形文字の解読はできなかったが、同じ語に対してさまざまに異なる表記があることに気づいた[3]

1848年のフランス革命の後は発掘は放棄され、ボッタはトリポリエルサレムに赴任した。モースルの発掘は1851年になって後任のモースル領事ヴィクトル・プラスによって継続された[2]

脚注 編集

参考文献 編集

  • Gran-Aymerich, Ève (2012). “BOTTA Paul-Émile (1820 - 1870)”. In François Pouillon. Dictionnaire des orientalistes de langue française. Karthala Editions. pp. 130. ISBN 2811107908 
  • 関根正雄 著「楔形文字の解読」、関根正雄、高津春繁 編『古代文字の解読』岩波書店、1964年、99-149頁。