マヤークロシア語: Произво́дственное объедине́ние «Мая́к»、生産合同«マヤーク»。マヤークはロシア語で灯台の意味。化学コンビナートマヤーク、チェリャビンスク-65とも呼ばれる)はロシア連邦チェリャビンスク州オジョルスク市近郊にある核施設であり、ソ連時代に核兵器に使用する核分裂性物質を工業的に生産する初の工場として設置された。1987年以降は兵器級核物質を製造しておらず、放射性同位体、特にコバルト60[要出典]の生産と核燃料再処理が主な事業である。通常の運転に加え、1957年のウラル核惨事を含むさまざまな事故を通じて非常に大量の放射性物質を環境中に放出してきた。いまもなお秘密にされている部分があることに加え、施設やオジョルスク市への厳しい立入制限により信頼できる情報は限られている。

マヤーク核技術施設と周辺の衛星写真
マヤークの位置(ロシア内)
マヤーク
マヤーク
マヤーク核技術施設のロシアにおける位置

しかし後継処理場の建設は頓挫していることから、国内唯一の施設として今後も稼働が続くことは確実視されている。[要出典]

歴史 編集

「化学コンビナート・マヤーク」は、1945年から1948年の間に以前からあった工場集合体を元にして、今日のオジョルスク市と合同でソビエト連邦の原子爆弾開発の中核施設として急いで建設された。1945年11月には町の最初の建物が建った。建設の総指揮は以前、白海・バルト海運河建設で建設指揮次官だったヤコヴ・ダヴドロヴィッチ・ラッポートが執った。1947年からは、最初の原子炉建屋建設とそれに続く建築の指揮はミハイル・ザレヴスキーが執った。原子力技術長はニコライ・アントノヴィッチ・ドレジャリロシア語版で、彼は最初の原子炉Aの構造設計責任者でもあった[1]。 この初めてのウラン・黒鉛炉は1948年に稼動し始めた。同年12月には原子炉で生産されたプルトニウム加工用の放射化学施設の稼動も始まった[2]。 最初の学術長はヴィタリ・フロピンロシア語版で、彼は特に再処理工場Bの責任者であった。工場Vでの冶金的再処理は1949年に開始され、原爆のためのプルトニウム半球が製造されたが、その指揮はアンドレイ・アナトリェヴィッチ・ボチュマーが執った[1]CIAの報告によればこの建築作業には約7万人の強制労働者がつぎ込まれた。ソ連時代にはとくに核兵器に用いるプルトニウムの生産が行われ、ソ連初の原爆RDS-1にも使用された[1][3]

マヤークでは最盛期で25,000人、2003年でも14,000人が働いていた[3][4]。 1948年から1987年まで合計10基の原子炉が稼動している。1987年以降、マヤークでは核兵器原料は生産されていない。1991年までに8基の原子炉が停止された。まだ稼動している2基の原子炉は医学・軍事・研究用の同位元素を生産している。マヤークではこの他に原子力潜水艦および原子力発電所用の核燃料を生産するとともに、使用済み燃料の再処理を行っている[3]。 2007年から物理学者のセルゲイ・バラノフ(1957年生まれ)がこの研究施設の総監督を務めている。

1957年には放射性廃棄物の貯蔵容器が爆発した (キシュテム事故)。この事故は国際原子力事象評価尺度(INES)で2番目に高いレベル6と判定されており、1986年・チェルノブイリ原子力発電所事故、2011年・福島第一原子力発電所事故に次ぐ、歴史上3番目に重大な原子力事故とされている。 この事故により、約27万人が住むおよそ2万平方キロメートルの地域が放射性物質で汚染された。

マヤーク周辺地域は、フランシス・ゲーリー・パワーズが1960年5月1日に最後のスパイ飛行を行い撃墜された場所である[5]

過去数年間にマヤークでは稼動許可が完全にあるいは一部撤回されている。稼動許可は高レベル放射性廃棄物のガラス固化処理を条件としていたが、1997年春にはガラス固化処理工場内の不具合のためガラス固化処理ができなくなり、再処理工場が停止された。同年内に、新しいガラス固化処理工場の稼動までに十分な中間保管設備を確保した上で、再処理工場の稼働が再開された[6]。 2003年1月1日には、ロシア環境保護法によって禁止されている放射性廃棄物の河川への垂れ流しが行われていたことから、ロシア原子力当局から稼働停止処分を受けた[7][8]。放射性物質の河川への流入量を減らすための装置が導入されるまで、再稼働は許可されなかった。

ドイツ・ハーナウにあった、一度も稼動されなかった燃料棒工場をマヤークに売却する計画は2000年に放棄された[9]

2010年には環境保護団体グリーンピースがスイスのエネルギー企業アクスポ・ホールディングを批判した。その理由は、この会社がマヤークで再処理された燃料棒を、それと明示せずに使っていたためである。この燃料棒は、ベツナウ原子力発電所ゲスゲン原子力発電所英語版で使用されていた[10]。これに対応して、スイスの電力会社は燃料棒の由来を確認して契約を見直すと発表した[11]

2010年には山火事で危険にさらされた。2010年8月9日には火災が施設に迫ってきたため担当官庁は緊急事態を発令した[12]が、すぐ後になって解除された[13]

2010年9月にはドレスデン・ロッセンドルフ研究所ドイツ語版から出た951本の燃料棒を、アーハウス使用済核燃料中間貯蔵施設ドイツ語版)からマヤークへ送り、再処理したものをロシアの原発で使う計画が持ち上がった。この計画はドイツとロシアの環境保護団体からの批判を浴び、ことにマヤークで確実に安全貯蔵される可能性が疑われた[14]。2010年12月に当時の環境大臣ドイツ語版ノーベルト・レットゲンドイツ語版は、マヤークにおいて核廃棄物の規則に基づいた安全な再処理が保障されるか確信できないとして、この輸送計画を拒絶した[15]

名称 編集

時代の流れに伴って、施設の名称も変遷を辿ってきた。

  • 1946年から1967年まで:第817コンビナート(Комбинат No. 817
  • 1967年から1989年まで:化学コンビナート・マヤーク(Химический комбинат «Маяк»
  • 1990年から2001年まで:生産合同マヤーク(Производственное объединение «Маяк»
  • 2001年以降:連邦国営単一企業・生産合同マヤーク(Федеральное государственное унитарное предприятие Производственное объединение «Маяк»; ФГУП ПО «Маяк»

付随する閉鎖都市オジョルスクも長年公的名称を持たず、最初はチェリャビンスク40、後にチェリャビンスク65と、一種の郵便私書箱名称で呼ばれていた。

建設と構造 編集

 
マヤーク核技術施設の囲い

マヤークの敷地面積はおよそ90平方キロメートルに及ぶ[2]。隣接するオジョルスク市にマヤークの就労者の大部分が住んでいるが、マヤーク自体と同じくオジョルスク市もソ連の公的地図には記されていない。オジョルスクは施設と時を同じくして建設されたが、施設からの排気ができるかぎり届かないように風向きを考慮して場所の選定が行われた[16]。敷地にはいくつかの原子炉、再処理工場、そして放射性廃棄物の保管施設などがある[3]。マヤーク周辺およそ250平方キロメートルの地域は立入禁止地区になっている[2]

近郊には南ウラル原子力発電所建設現場がある。

原子炉 編集

さまざまなタイプの原子炉が合計10基、マヤークで稼動されてきた[3]

原子炉名 原子炉タイプ 稼動開始日 停止日 注釈
A (アヌシュカ) ウラン・黒鉛炉 1948年06月01日 1987年06月16日 出力100 MW, のち500 MW
AI ウラン・黒鉛炉 1951年12月22日 1987年05月25日 研究用原子炉
AW-1 ウラン・黒鉛炉 1950年07月15日[1] 1989年08月12日 300 MWtherm[17]
AW-2 ウラン・黒鉛炉 1951年03月30日 1990年07月14日
AW-3 ウラン・黒鉛炉 1952年09月15日 1991年11月10日
OK-180 重水炉 1951年10月17日 1966年03月03日
OK-190 重水炉 1955年12月27日 1965年10月08日
OK-190M 重水炉 1966年 1986年04月16日
ルスラン 軽水炉 1979年06月18日 稼動中 元は重水炉だったのを改造、熱出力 1000 MW
リュドミラ(LF-2) 重水炉 1987年12月31日 稼動中 熱出力 1000 MW

マヤーク初の原子炉は軽水冷却黒鉛炉Aで、従業員はアヌシュカとも呼んだ。 これは1948年6月7日に初めて臨界となった。 当時のソ連で使用可能なウラン全量にあたる150トンのウランが装荷され、ここで得られたプルトニウムを用いてソ連初の原爆RDS-1が製造された。 この原子炉Aはもともと熱出力 100 MWで設計されていたが、後に500 MWに改造された。 故障や事故により大気中に放出された核分裂生成物はいくつかの空気フィルターにより食い止められることになっていた[1]

特に稼動開始初期には数々の技術的問題が発生した。主な問題はウランペレットを入れるためのアルミニウム管が腐食や過熱で破損しやすいことで、たびたび修理のために原子炉から燃料を取り出す必要があった。普通なら燃料は下方へ取り出して水中に保存する。しかし、交換用の燃料が不足していたため燃料を原子炉上部に取り出すことになり、運転員が高線量の放射線を浴びることになった[1]

1950年から1952年までに、さらに3基のAW型原子炉が稼動し始めた。これらは、ほぼあるいは全く同じものだった[1]。1951年に最初のOK型重水炉が稼動し、続いて1955年と1966年にも同タイプの炉が稼働し始めた。重水炉のうち最初の2基はそれぞれ15年後および10年後に停止されたが、その理由は明らかにされていない。

2011年末現在で)稼動するルスランとリュドミラ(LF-2とも呼ばれる)原子炉は熱出力 1000 MW で、とりわけ14C60Co192Ir238Puトリチウムの製造にあたっている[3][1]

再処理 編集

核兵器の製造や原子力発電所での再利用には燃えた燃料集合体を再処理しなければならない。1948年には燃料集合体から核兵器級プルトニウムを得るための施設Bが稼動し始めた。1969年には施設DBがそれに代わり、これは1987年まで稼動した。核兵器に使用するための冶金加工は、タツィシ集落近郊(マヤークと周辺の衛星写真参照)に1949年に建てられた施設Vの中で行われた[18][3]。1987年に核兵器製造は停止したものの、この施設は現在も稼動中である。その目的は明らかにされていない[3]

平和利用目的では、核燃料の再処理が1977年以降施設RT-1で行われている。現在はVVER-440、高速炉BN-350およびBN-600などの商業用発電炉および海軍や研究用原子炉からの使用済み核燃料を再処理している。再処理された核燃料物質はRBMK原発用の核燃料やMOX燃料の製造に用いられる。もともとは年間処理量410トンで設計されたが、2004年には約150トンしか再処理されなかった。これは施設の老朽化だけでなく、法律により放射性廃棄物の環境への放出規制が厳しくなったためである[3]。今日のマヤークでは、平和利用のための再処理は、放射性同位元素の製造に並ぶ主要業務になっている。

再処理過程で生じる高レベル放射性廃棄物は、中間貯蔵された後に最終貯蔵のためガラス固化施設でガラス固化体に加工される。再処理工程で生じる低レベル・中レベル放射性廃棄物は主にカラチャイ湖へ放流されている[6]

放射性同位元素の製造 編集

1950年代の初めからマヤークでは特殊な放射性同位体の製造が行われており、トリチウムは核兵器(特にブースト型核分裂兵器)に使用された。 その他、放射性同位体熱電気転換器や医学・農業・産業など各分野で使用されるさまざまな放射性同位体も生産された。

今日でも医学・軍事・学術研究用の同位元素が生産されている。 マヤークからの情報によれば、ここは137Csや、241Amをベースにした中性子源の輸出では世界一、さらに60Coでは世界市場の30パーセントを占めている。また、生産高の90パーセントは輸出されている[19]

核分裂性物質貯蔵施設 編集

 
建設中の核分裂性物質貯蔵施設
 
建設中の核分裂性物質貯蔵施設と換気施設

核分裂性物質貯蔵施設[1]英語: fissile material storage facility, FMSFロシア語: хранилище делящихся материалов, ХДМ )と呼ばれる核分裂性物質の貯蔵設備をロシアとアメリカ合衆国の間の共同事業で整備するNunnLugar Cooperative Threat Reduction (CTR)プログラムが立ち上げられた。その目的は、高濃度で兵器として使用しうる核分裂性物質を、安全にしかも物理的な攻撃にも耐えて保管できる貯蔵所を建設することにあった。建設は1993年に始まり、2003年に完成した。しかし、初めて核分裂性物質が貯蔵されたのは2006年7月のことであった。これは、設備がまだ完全な機能を備えておらず、アメリカ側の監視法規と合致しない点があり、さらにその運営および監視のために十分訓練された人員が不足していたからであった[3][20][21]。この建設にはさまざまな民間企業とアメリカ軍およびロシア軍が参加したが、特に重要なのはアメリカ陸軍工兵司令部と 米建設会社ベクテル[3]であった。建設費は総額でおよそ4億米ドルに上った[22]。貯蔵施設はマグニチュード8の地震や洪水、飛行機の墜落にも耐えられるとされている。貯蔵容積はプルトニウム50トン、ウラン200トンにのぼり、これは、12,500発分の廃棄核弾頭から出る核分裂性物質に相当する。しかし、2004年にはこの施設の計画利用率は25%に留まった[3]。使用期間は100年と計画されている[20][22]。この施設の横にある使用済み核燃料再処理施設RT–1の敷地内には、ウラン560トンまで収容できるプールがある。 2004年には、これ以外に原子力潜水艦の核燃料40トン容器が154個納まる貯蔵施設が建設中であった[3]

湖・河川 編集

 
Entwicklung der Tetscha-Kaskade von Staubecken von 1949 bis 1964 (animiert)

施設周辺の湖や河川は放射性廃棄物の捨て場となっていた。とくに再処理のときに生じる放射性で液体廃棄物はプルトニウム生産開始後数年、テチャ川に流された。排水口近くの川底に沈殿した放射性同位体が川下へ流されるのを防止するため、時代の流れとともに、運河やダムを使った大規模システムが造られた。もともとテチャ川はイルチャシュ湖から出てキュスユルタシュ湖を通っている。今はこの川の水は大部分、湖に来る前に左側・北へ斜めに続く運河を通って40 kmほど移され、その後、もともとの川へと流れている。

この措置の中で、いくつかの人工的なダム(V-3、V-4、V-10、V-11)が元の川の流れに作られ、そのうちV-10は最も汚染のひどいところで、およそ8500テラベクレル(TBq, 8.5×1015 Bq) の放射性を示している[3]。以前、V-10ダムの場所でテチャ川に合流していたミシェリャック川も右側・南の運河でダムへ導かれている[23]。これらの運河は広さ30平方キロメートルのアサノヴォスキー湿地へ流れ込み、ここは220 TBq (2.2×1014 Bq) の強さで汚染されている[24]

V-3ダムは1951年に0.78 平方キロメートルの広がりに設置された。V-4(1.6平方キロメートル)ダムは、1956年にすでに存在したダムを高く改造した、かつてのメトリンスクダムを元に造られた。V-3とV-4の貯水容量は弱放射性下水が一年に流れる量に大体一致する。V-10(18.6 平方キロメートル)は1956年に設置されV-4ダムから流れてくる水をためる。最後のダム水槽V-11は47.50 平方キロメートルの最大のものだ。これは1963年に造られた。V-10ダムがすぐに満水になるので、それに続くダムとした[24]。だが、V-11ダムの水準も同じように危険な高さになっている。この水準を下げるためには建設中の南ウラン原発の冷却水のタンクとして水を使うべきだろう。水温が上がると蒸発が強くなるからだ[3]。北の運河は1962年に南のは1972年に建設された[24]

液体の放射性廃棄物が貯めてある他の湖死水域はカラチャイ湖(約4 エクサベクレル, 4 · 1018 Bq)とスタロジェ・ボロト池(ダムのせいで起きた汚染・約74 ペタベクレル, 7.4×1016 Bq). である。このカラチャイ湖は現在ほとんどの部分をセメントで埋め、放射性物質の飛散を防いでいる。この湖の広さは1962年には0.51 平方キロメートルだったが1994年には0.15 平方キロメートルまで狭められた[25]

事故 編集

原発装置安全協会によれば1948年から2008年までに8件の重大事象が記録されている[26]

日付 事故内容 INES-指数 犠牲者
1953.3.15. プルトニウム・窒素化合物の容器内の臨界事故 3 負傷者3名[27]
1957.4.21 高濃縮ウラン容器内の臨界事故 4 死者1名 負傷者10 名 [27]
1957.9.29 キシュテム事故 貯蔵タンク内の爆発 6 爆発による負傷者1名、放射能による被害者数 不明
1958.1.2 高濃縮ウラン容器内の臨界事故 4 死者3 名 負傷者1 名 [27]
1960.12.5 プルトニウム・カルボナットの臨界事故 3
1962.9.7 プルトニウム廃棄物の臨界事故 3
1965.12.16 高濃縮ウラン廃棄物の臨界事故 3
1968.12.10 プルトニウム液体容器内の臨界事故 4 死者1 名, 負傷者1 名[27]

この装置の稼動による作業従事者や住民の放射性汚染の点でマヤークでは過去数年、人間への放射性汚染の影響の調査が強化されている[2]

1957年4月21日高濃度ウラン入りの容器内の臨界障害 編集

グローブボックスに入れてあった容器にウラン溶液が多く集まりすぎ、臨界を越えようとした。そのせいで容器は破裂、溶液の一部がグローブボックスに流れた。ある女性作業員は放射能30〜46グレイを浴び、12日後に死亡した。同じ部屋にいた5人の作業員はそれぞれ3グレイを浴び、放射線病となった。さらに5人が1グレイほどを浴びた[27][28]。 この事象は国際原子力事象評価尺度(INES)では4(事故)と評価された[26]

1957年9月29日 キシュテム事故 編集

 
キシュテム事故により汚染された地域(東ウラル)
 
キシュテム事故の犠牲者の記念碑

1957年9月29日、内部の調整器具の火花により、容積300立方メートルのタンク内にあった結晶化した硝酸塩と再処理の副生成物が爆発を起こし、大量の放射性物質が撒き散らされた。マヤークと官庁によれば、事故によって総量400 PBq(4×1017 Bq)の放射能が2万平方キロメートルの範囲にわたって撒き散らされ、27万人が強い放射能にさらされた。

この事故は国際原子力事象評価尺度(INES)では2番目に深刻なレベル6と判定された[29]

1958年1月2日 濃縮ウランの容器内での臨界事故 編集

臨界実験後、そのウラン溶液は幾何学的に安全な容器に入れ替えることになっていた。時間の節約のために実験者たちは入れ替え標準手続きを通さなかった。理由は残っている溶液が臨界から程遠いと考えたからだ。しかし入れ替えの際に形が変化してしまい、人の存在により中性子を反射するに十分で、そのせいで溶液は即、臨界に到った。溶液は爆発し、3人の作業者が60グレイの放射線量を浴び、4、5日後亡くなった。3メートルの距離にいた一人の女性は6グレイを浴び、急性放射性病からは生き延びたものの、重い後遺症に悩まされた[27][28]。 この工場内での臨界実験はその後中止された。INESではレベル4(事故)と判定された[26]

1967年 汚染物質の嵐 編集

1967年の乾季のとき、中間貯蔵場として使われていたカラチャイ湖の水位が下がった。4月10日から5月15日まで放射性汚染された沈殿物質が乾いた岸辺から強風によって1800平方キロメートルから5000平方キロメートルの地域まで運ばれた。この全体の値はさまざまな情報源によれば、22 TBq から 220 TBq (2.2 bis 22×1013 Bq) と見積もられている[30][31][32]

1968年12月10日 プルトニウム溶液の容器の臨界事故 編集

プルトニウム溶液を20リットル容器から60リットル容器へ移そうとして、60リットル容器の中の溶液が臨界に近くなった。その結果発した光と熱のせいで、20リットル容器を持っていた作業者がそれを落とし、中に残っていたプルトニウム溶液が床に流れた。建物からはすぐに避難させられ、放射線防護担当者はその領域への立ち入りを禁止した。しかし作業担当長がその建物に入ることを強く願い、放射線防御担当者と一緒に事故がおきた部屋の前へ行った。危険に高いガンマ線の値が見られたのにもかかわらず、作業担当長は中へ入り、防御担当者がすぐに外へ出した。たぶん作業担当長はプルトニウム溶液の一部を下水タンクへ入れようとしたらしいが、それも新たな臨界を招くだけであった。 交替作業員長は24グレイを被曝したとみられ、一ヶ月後に亡くなった。作業員は約7グレイの被曝で重い放射線病となった。彼の両足と片手は切断されねばならなくなった[27][28]。 国際原子力事象評価尺度(INES)レベル4と評価された[26]

1994年8月31日 燃料棒の火災 編集

使用済み燃料の処理中に燃料棒のカバーが燃え始めた。このせいで8 GBq (8.8×109 Bq)の強度の放射能が漏れた。これは年間許容量の4.36 パーセントに当たる。この事故原因として労働規定違反が調査されている[33][3]

2007年6月26日〜28日 パイプラインの漏れ 編集

放射性液体用の管の破損から液体が2日間にわたって漏れていた。工場長ヴィタリー・サドヴニコフはこの事故の責任を負って失職した[34]

2007年10月25日 放射性廃棄物の垂れ流し 編集

ロシアの公的な発表によれば2007年10月25日に再処理工場から放射能が漏れたが、これは負傷者も出さず、環境への悪影響もなかったという。液体放射性廃棄物がタンクから道路へ流れていた。公的な理由としては、安全規則が十分に実行されていなかったという。汚染土は道路から剥ぎ取られた[35]

2008年10月22日 漏れのために3人の負傷者 編集

継ぎ目の故障で貯蔵池から放射性物質がブロック20から流れ、そこで働いていた3人のエンジニアが負傷した。そのうちの一人は、この結果、一本の指を切断して、そこからα線放射性物質が体内に広がるのを防がねばならなかった[36]

放射能の悪影響 編集

マヤークの装置を通して放射性物質が大量に撒き散らされ、これは特に1957年のキシュテム事故で著しい。この事故の影響は学問調査の一環として2005年8月1日からSouthern Urals Radiation Risk Research (SOUL) として調査されている[37]。1997年のロシアおよびノルウェー政府による学術調査によれば、1948年以来マヤークからは90Sr137Csが8.9EBq(8.9×1018Bq)の強度で環境に散っている[38]。これはほとんどチェルノブイリ事故で発散した物質の量にあたる(約12EBq)。その上239Puのような放射性物質もある。環境保護団体は、これによっておよそ50万人が高い放射能をあびたと見ている[3]

労働者の被曝 編集

マヤークの初期には責任者にとってプルトニウムの生産のほうが労働安全より重要だった。再処理装置(工場Bと工場V)、さらに原子炉の傍でも1948年から1958年までは作業者は高い放射能を浴びていた。この期間には急性放射線症候群が2089件も届けられている。 一年の汚染値で合計17245人が少なくとも一度は0.25Svを越えている。約6000人が合計汚染値の1Sv以上を浴びている[1]

水の汚染 編集

 
放射能汚染されたテチャ川の岸辺にいる牛

1948年の操業開始から1951年9月までの生産で、7800万平方メートルに上る高放射性液体廃棄物が[39]全強度106PBq (1.06×1017Bq)[40]となってテチャ川に流された。この川から周辺住民は一部飲料水を取っていた[41]。川の流れにそって非常な環境汚染を起こしたので1951年以降は液体高放射性廃棄物はまずカラチャイ湖へ流された。この湖から地表に流れ出す川はない。1953年以来、高い放射性廃棄物はタンクに貯蔵されているが中程度の放射性廃棄物は続けてカラチャイ湖へ流れている[39]

河川の放射性汚染の理由で川の上流130キロメートル以内の多数の村々の住民が移住させられた。川は鉄条網で立ち入り禁止になり、警告の看板が立っている。だがあらゆる村の住民が避難させられたのではない。例えば70キロメートル下流の集落ムスリュモヴォにはまだ4000人の村民が移住を待たされている。環境保護団体グリーンピースは2011年に移住費用200万ルーブル(約5万ユーロ)を着服した責任者を非難した[42]。住民たちは禁止にもかかわらず今日までテチャ川畔を例えば家畜の放牧地として使っている[43]

1950年以降に生まれた住民で少なくとも1950年から1960年の間にテチャ川畔の41村に住んでいた人たちの調査ではガン症例の3パーセント、白血病症例の63パーセントが川の高い放射性に起因する[44]

2001年から2004年のあいだには担当官庁によれば液体放射性廃棄物が新たにテチャ川に垂れ流しされたという。核技術研究所所長は裁判にかけられたが、大赦を受け裁判は中止となった[45][46]

カラチャイ湖には1993年まで、特に1980年以前には20EBqもの放射性廃棄物が放流されたと推定されている[40]。壊変や除染、さらには地下水への漏出により、2004年には4.4EBqまでに下がったものの、この湖は今なお地上で高レベルに放射能汚染された場所の一つである[18]。1995年の調査によれば、地上核実験で生成された総量の4倍以上もの90Srおよび137Csが含まれていた[40]。さらに、湖水は地下に浸透して地下水を汚染し、周囲に広がっている。

施設操業者の話によれば、2010年11月19日から有効になった新しい規則では低レベル汚染水は放射性廃棄物とみなされなくなり、何のチェックもなく環境中に放出されている[47]

土壌汚染 編集

東ウラル地方も同じように高度に汚染されている。この地方の放射性汚染は何年にも渡る研究プロジェクトSouthern Urals Radiation Risk Research(SOUL)の調査対象となっている。このプロジェクトには11の西側パートナーが参加しており、その中にはドイツ国立放射線保護機関ドイツ語版ミュンヘン工科大学カロリンスカ研究所テサロニキ・アリストテレス大学ギリシア語版ライデン大学パレルモ大学フロリダ大学 および数ヶ国の保健機関が含まれる。 この研究は ミュンヘン・ヘルムホルツ・センターが指揮している[48]

関連項目 編集

出典 編集

  • Igor Kudrik, Aleksandr Nikitin, Charles Digges, Nils Bøhmer, Vladislav Larin, Vladimir Kuznetsov (1 November 2004). "The Russian Nuclear Industry – The Need for Reform. Bellona Report Volume 4:2004" (PDF; 3,0 MB) (英語). Bellona Foundation. pp. 47–69. 2010年4月24日閲覧
  • Carola Paulsen (2001). "Morbidität bei 80 akzidentell seit 1949 chronisch strahlenexponierten Anwohnern des Techa-River (Südural)" (PDF; 1,9 MB). Universität Ulm. 2010年11月14日閲覧 Dissertation
  • Thomas B. Cochran, Robert Stan Norris, Oleg Bukharin (1995). [PDF-Datei; 2,1 MB “chapter 3 Chelyabinsk-65/Mayak Chemical Combine”]. In Natural Resources Defence Council (英語) (url-Version eingescannt und ohne Bilder). Making the Russian bomb: from Stalin to Yeltsin. Boulder, CO: Westview Press. ISBN 0-8133-2328-2. LCCN 95-14478. OCLC 32310992. PDF-Datei; 2,1 MB 2011年8月6日閲覧。 
  • Nils Boehmer, Thomas Nilsen (1995). "Reprocessing plants in Siberia". Bellona Working Paper 4:1995 (英語). 2001年12月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年11月14日閲覧

外部リンク 編集

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北緯55度41分37.1秒 東経60度48分15.6秒 / 北緯55.693639度 東経60.804333度 / 55.693639; 60.804333