マルクス・ユニウス・ペンヌス

マルクス・ユニウス・ペンヌス(Marcus Junius Pennus、生没年不詳)は、紀元前2世紀初頭の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前167年執政官(コンスル)を務めた。


マルクス・ユニウス・ペンヌス
M. Junius M. f. M. n. Pennus
出生 不明
死没 不明
出身階級 プレブス
氏族 ユニウス氏族
官職 法務官紀元前172年
執政官紀元前167年
指揮した戦争 対リグリア戦争
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出自 編集

ペンヌスはプレブス(平民)であるユニウス氏族の出身である。プレブス系ユニウス氏族が歴史に登場するのは古く、紀元前325年にはデキムス・ユニウス・ブルトゥス・スカエウァが執政官となっている。紀元前1世紀の時点で、ユニウス氏族は共和政ローマ最初の執政官ルキウス・ユニウス・ブルトゥスの子孫であると称していた[1]。カピトリヌスのファスティによれば、ペンヌスの父も祖父もプラエノーメン(第一名、個人名)はマルクスである[2]。父マルクスは紀元前201年にプラエトル(法務官)を務めた、

経歴 編集

ペンヌスは紀元前172年に法務官に就任し[3]ヒスパニア・キテリオルの総督となった[4]。ペンヌスは赴任に先立ち元老院に増援部隊の編成を要請する。元老院は歩兵3000、騎兵150よりなるローマ軍団、歩兵5000および騎兵300からなるアウクシリア(同盟軍)を認めたが、軍の編成は遅れ、結局翌年の法務官がこれを指揮することとなった[5]

5年後の紀元前167年に、ペンヌスは執政官に就任する。同僚執政官はクィントゥス・アエリウス・パエトゥスで、やはりプレブス(平民)であった[6]。これは過去4年間で3度目のことであった。歴史学者F.ミュンツァーは、元老院からの抵抗は大きかったであろうと述べている[7]。両執政官ともリグリアで戦う必要があったが、勝利を得ることはできなかった[8]。前年に第三次マケドニア戦争がローマの勝利で終結したが、ギリシアの各都市国家はローマに大使を送ってきた。ロードスもその一つであった。ロードスは戦争中に敵対的な行動をとっており、ペンヌスを通じて元老院に弁明しようとしたが、元老院は厳しい回答をした[9]

子孫 編集

同名の息子は紀元前126年護民官を務めている。

脚注 編集

  1. ^ Wiseman T., 1974 , p. 155.
  2. ^ カピトリヌスのファスティ
  3. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XLII, 9.8
  4. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XLII, 10.13
  5. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XLII, 18.6
  6. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XLV, 16.1
  7. ^ Iunius 122, 1918 , s. 1075
  8. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XLV, 17.6
  9. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XLV, 20.4-10

参考資料 編集

古代の資料 編集

研究書 編集

  • Münzer F. "Iunius 122" /// Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft. - 1893. - Bd. I, 1. - Kol. 1075
  • Wiseman T. Legendary Genealogies in Late-Republican Rome // G&R. - 1974. - T. 21 , No. 2 . - S. 153-164

関連項目 編集

公職
先代
ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス II
ガイウス・リキニウス・クラッスス
執政官
同僚:クィントゥス・アエリウス・パエトゥス
紀元前167年
次代
ガイウス・スルピキウス・ガッルス
マルクス・クラウディウス・マルケッルス