マーティン・オニール

北アイルランドのサッカー選手

マーティン・ヒュー・マイクル・オニール OBEMartin Hugh Michael O'Neill OBE, 1952年3月1日 - )は、アイルランド出身の元サッカー選手監督[1]北アイルランド代表ではキャプテンを務め、監督としては、セルティックを率いて3度のリーグ優勝を果たすなどの実績を残している。

マーティン・オニール
名前
本名 マーティン・ヒュー・マイクル・オニール
Martin Hugh Michael O'Neill
基本情報
国籍 イギリスの旗 イギリス北アイルランドの旗 北アイルランド
生年月日 (1952-03-01) 1952年3月1日(72歳)
出身地 キルリア
選手情報
ポジション MF
ユース
1969-1971 北アイルランドの旗 デリー・シティ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1971 北アイルランドの旗 ディスティラリー 7 (3)
1971-1981 イングランドの旗 ノッティンガム・フォレスト 285 (48)
1981 イングランドの旗 ノリッジ・シティ 11 (1)
1981-1982 イングランドの旗 マンチェスター・シティ 13 (0)
1982-1983 イングランドの旗 ノリッジ・シティ 55 (11)
1983-1984 イングランドの旗 ノッツ・カウンティ 64 (5)
1984 イングランドの旗 チェスターフィールド 0 (0)
1985 イングランドの旗 フラム 0 (0)
通算 435 (68)
代表歴
1971-1984 北アイルランドの旗 北アイルランド 64 (8)
監督歴
1987-1989 イングランドの旗 グランサム・タウン
1989 イングランドの旗 シープシェッド・チャーターハウス
1990-1995 イングランドの旗 ウィコム・ワンダラーズ
1995 イングランドの旗 ノリッジ・シティ
1995-2000 イングランドの旗 レスター・シティ
2000-2005 スコットランドの旗 セルティック
2006-2010 イングランドの旗 アストン・ヴィラ
2011-2013 イングランドの旗 サンダーランド
2013-2018 アイルランドの旗 アイルランド代表
2019 イングランドの旗 ノッティンガム・フォレスト
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

生い立ち 編集

オニールは1952年、労働者階級のアイルランド民族主義者である家族のもとに、北アイルランドキルレイで生を受けた[1]。彼は男4人、女4人の兄弟の4人目に生まれた子どもであった[1]。父親は地元のキルレイGACというゲーリック・フットボールチームの設立時のメンバーであり、兄弟のジェリーとレオの2人もそのクラブでプレイし、強豪チームであるデリーGAAでもプレイしていた。オニール自身も両クラブのユース世代のチームでプレイしていた経験がある。

ゲーリック・フットボールを続けながらデリーにある中等教育機関のセント・コロンビア校へ通い[1]、後にベルファストにあるセント・マラーキー校へ進んだ[1]。サッカー選手としてオニールが多くの人の目にとまるようになったのはその頃で、彼はベルファストに隣接するリスバーンという街を本拠地とするクラブであるディスティラリーでプレイするようになっていた。これはゲーリック体育協会が禁止しているルール(ゲーリック・フットボーラーは外国のスポーツをしてはならない)を犯す行為であった[1]。そのため、セント・マラーキー校がマックローリー・カップの決勝に進んだ際、ゲーリック体育協会の委員会は、決勝戦をベルファストにあるケースメント・パークで行う許可を与えなかった[1]。しかし、決勝に進んだ両校は、会場をティロン県にある競技場へ変更し、オニールをプレイさせた[1]。セント・マラーキー校は試合に勝利し、この論争はオニールの評判を高めることになった。

一方、ディスティラリーでは1971年にアイルランド杯で優勝し、決勝では2ゴールを挙げる活躍を見せた。また、1971年9月に行われたUEFAカップウィナーズカップバルセロナ戦では1-3で敗れたものの、1ゴールを決めている。これらの活躍からオニールはノッティンガム・フォレストのスカウトの目にとまり、1971年に契約を結んだ。オニールはディスティラリーを離れ、また法学を専攻していたクイーンズ大学も中退することとなった。

選手経歴 編集

IFAプレミアシップディスティラリーでプレイを始める前、オニールはベルファスト北部のロサリオでプレイしていた。彼はそこでサッカー選手としての才能を磨き、今日までのそのクラブ出身選手の中で最も有名な選手となっている。ノッティンガム・フォレストに移籍したオニールは伸び悩んでいたが、1975年にブライアン・クラフが監督に就任したのをきっかけに中盤の選手としての才能を開花させることとなった。オニールはフォレストの黄金時代で重要な役割を演じ、1978年にはリーグリーグカップのダブルを達成し、翌シーズンもリーグカップのタイトルを獲得した。フォレストが初めてチャンピンズカップで優勝を果たした際には怪我から完全に回復しておらずチームを離脱していたが、2連覇を達成した1980年の決勝では90分間フル出場している。

北アイルランド代表でもレギュラーとして活躍しており、北アイルランド代表が出場を果たした1982 FIFAワールドカップではキャプテンを務めた。

北アイルランド代表では64試合に出場し8ゴールを挙げており、キャプテンも務めていたが、カトリック教徒であったためウィンザー・パークではブーイングを浴びることもあった[1]。その他のクラブではノリッジ・シティマンチェスター・シティノッツ・カウンティでプレイをした。オニールは1986年のワールドカップに出場するためにコンディション調整を目的としてチェスターフィールドのリザーブチームの試合に出場していたが、膝を負傷してしまった。

監督経歴 編集

現役引退後、オニールは監督としてのキャリアを築き始めた。初めて監督を務めたのは1987年に就任したグランサム・タウンである。その後、シープシェッド・チャーターハウスで短期間監督を務めた[2]

ウィコム・ワンダラーズ 編集

1990年2月、ウィコム・ワンダラーズの監督に就任した。1990-91シーズンはフットボールカンファレンスで5位となり、1991-92シーズンはカンファレンスで2位になったが、得失点差でコルチェスター・ユナイテッドに及ばなかった。1992-93シーズンに優勝し、フットボールリーグディヴィジョン3へ昇格を果たすと、翌シーズンはプレーオフの末にプレストン・ノースエンドを4-2で破り、ディヴィジョン2への昇格を果たした。1995年6月13日、ノリッジ・シティの監督に就任し、クラブを去った。1991年と1993年にはFAトロフィーで優勝した[3]

ノリッジ・シティ 編集

1995年6月、ノリッジ・シティの監督に就任したが[4]ハル・シティディーン・ウィンダスを75万ポンド(約1億700万円)で獲得する可能性を巡ってロバート・チェイス会長と対立し、12月に辞任した[5]

レスター・シティ 編集

彼はノリッチを去ってすぐにレスター・シティの監督に就任した。就任直後は苦労したものの、1995-96シーズンはプレイオフの末にプレミアリーグ昇格を果たした。オニールが監督を務めていた間はいずれのシーズンもトップ10以内でフィニッシュし、1997年と2000年にはリーグカップのタイトルを獲得し、1999年にも決勝に進出している。1997年は9位、1998年と1999年は10位、2000年は8位であった。また、リーグカップで優勝したためUEFAカップにも出場している。

レスターの監督を務めている際にリーズ・ユナイテッドの監督に就任するための会談が開かれたが、数千人のサポーターがプラカードを手に「Don't go Martin!」と声を上げ、クラブに留まってくれるように求めた。その努力が実り、オニールはクラブに留まることになった。

セルティック 編集

ジョン・バーンズケニー・ダルグリッシュセルティックを去り、2000年6月1日、遂にオニールはレスターを去ることとなった。セルティクでは後に「Martin the Magnificent(偉大なるマーティン)」、「the Blessed Martin(神聖なるマーティン)」というニックネームでサポーターから呼ばれるようになった。 就任後初のオールドファームではレンジャーズを6-2という劇的なスコアで破り、この試合以前から築かれていたレンジャーズの持つ精神的なアドバンテージを払拭した。就任後最初のシーズンにオニールが率いるセルティックは国内3冠を達成し、改編されたチャンピオンズリーグにおいてセルティックで初めて指揮を執る監督となった。初めて挑んだチャンピオンズリーグでは勝点9を得たものの一次リーグで敗退した。オニールがセルティックで達成した最大の功績は、2003年にセビリアで行われたUEFAカップの決勝へチームを導いたことである。しかし、決勝ではジョゼ・モウリーニョ率いるポルトに延長の末に2-3で敗れた。 監督を務めた5シーズンで3度の国内リーグ優勝、3度のスコティッシュカップ優勝、また、2001年にはリーグカップでも優勝を経験している。 オニールはオールドファームで7連勝、2003-04シーズンにはリーグ戦25連勝という英国記録を達成している。

2005年5月25日、セルティックは2004-05シーズン終了後にオニールが監督を退任すると発表した。退任の理由は悪性リンパ腫を患っている妻のジェラルディンのためであった。

セルティックで最後に指揮を執ったのは5月28日に行われ1-0で勝利したスコティッシュカップ決勝のダンディー・ユナイテッド戦であった。オニールに率いられたセルティックは282試合213勝29分け40敗の成績を残した。

リーズとの契約 編集

ピーター・リッズデールの著書『United We Fall』の中で、オニールは2003年1月にセルティックを去り、リーズ・ユナイテッドの監督に就任するとの契約書にサインしたとの事実が明らかになった。この契約はリッズデールが契約の条件の一つであった「テリー・ヴェナブルズを退任させること」に失敗し、リッズデール自身がリーズを去ることになってしまったために立ち消えになってしまったとのことであった。 オニールはリッズデールに対し、合意の内容は「真実ではないことで満ちていた」と非難し、また、セルティックが新しい契約を提示しなかったことがサインをした理由であると述べた[6]

アストン・ヴィラ 編集

2006年8月4日の記者会見において、オニールはアストン・ヴィラの監督として紹介をされた。記者会見では「監督に復帰できたことと、それがヴィラのようなクラブであることはとても素晴らしいことであり、素晴らしい挑戦です。私はこのクラブの歴史を知っています。栄光の日々を取り戻すことは長い道のりのようですが、やってみませんか。チャンピオンズカップで優勝してから25年近く経ちますが、それを達成することが私の夢です」と、述べた。

ヴィラはオニールの下で立て直しを図り、2006-07シーズンは10月28日までリーグ戦9試合で無敗であった。 ヴィラはシーズン中盤にスランプに陥いったが、リーグ終盤に持ち直し、4月にアウェイで3勝を挙げるなどし、リーグ戦終了までの9試合は負けなしであった。 4月には月間最優秀監督に選ばれ、最終的に勝点50で昨シーズンを8ポイント上回る成績を残した。

アストン・ヴィラのオーナーであるランディ・ラーナーはとても名誉な仕事であるイングランド代表監督の就任のオファーがあり、オニールがクラブを去りたいのであれば止めはしないと述べた[7]。オニールは憶測に過ぎないとして、その報道を退けた[8]

2007-08シーズンは最終節にUEFAカップの出場権を逃したものの6位でシーズンを終了し、インタートトカップの出場権を獲得した。総得点71(1981年にタイトルを獲得して以来の最高の成績)、勝点60は1996-97シーズン以来の最高のポイントであった。良く組織されカウンターアタックを得意とするスタイルはオニールが率いていたレスター・シティやセルティックが得意としていたスタイルであり、賞賛を浴びた。 2008-09シーズンは25試合を終え勝点51で3位につけ、4位のチェルシーには2ポイント、5位のアーセナルには7ポイントの差を付けており、1983年以来となるチャンピオンズリーグ出場権を得られる可能性があったものの、UEFAカップでCSKAモスクワに敗れた後にコンディションを落とし失速し、その後10試合で勝利を挙げることができず、チェルシーとアーセナルに抜かれ4位以内に入ることは出来なかったが、6位でシーズンを終え1997年以来の最高の順位でシーズンを終えた。

2010年8月9日、シーズン開幕のわずか5日前に辞任が発表された。

サンダーランド 編集

2011年12月3日、少年時代にファンだったプレミアリーグサンダーランドと3年契約を結び監督に就任した[9]。就任最初の試合はホームのスタジアム・オブ・ライトブラックバーン・ローヴァーズに2-1で勝利した。就任後6試合で首位マンチェスター・シティを破る金星を含め4勝を挙げ、デイリー・テレグラフは「オニールマジック」と讃えた[10]。シーズン最後の8試合は3分5敗だったものの、13位で残留を決めた。選手に大きな変更はなく中盤のデイヴィッド・ヴォーンを中央のミッドフィールドへ戻しただけであったため、あらためてオニールの戦術認識の確かさが浮かび上がったのであった。

アイルランド代表 編集

2013年11月5日アイルランド代表の監督に就任することが発表された。アシスタントコーチにはロイ・キーンが就いた[11]

サッカー以外の生活 編集

学位は取得し終えていないが、犯罪学に対する情熱は失われておらず、イギリスのいくつかの有名な事件の裁判(ヨークシャー・リッパーローズマリー・ウェストの裁判や、最近ではバリー・ジョージ再審)を傍聴している。彼が犯罪学に興味を持ったのは、1961年に起きたハンラッティ事件がきっかけである[12]

2004年に大英帝国勲章を受勲した[13]。2002年にはノリッジ・シティのファンによる投票でクラブの殿堂入りをしている。

パーソナルライフ 編集

オニールはサンダーランドのサポーターとして育った。

ジェラルディンと結婚し、オックスフォードシャーに住みアイスリングとアラナの2人の娘を授かっている。

獲得タイトル 編集

選手として 編集

北アイルランド代表
  • 4カ国対抗戦 - 1980、1984年
ディスティラリー
ノッティンガム・フォレスト

監督として 編集

ウィコム・ワンダラーズ
レスター・シティ
  • リーグカップ - 1997、2000年
セルティック
個人賞
  • プレミアリーグ月間最優秀監督- 8回 (1997年9月、1998年10月、1999年11月、2007年4月、2007年11月、2008年12月、2010年4月、2011年12月)
  • スコティッシュ・プレミアリーグ月間最優秀監督賞 - 2000年8月、2000年12月、2001年2月、2001年8月、2002年4月、2002年11月、2003年10月、2003年11月、2005年1月
  • スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀監督賞 - 2000-01、2001-02、2003-04

監督成績 編集

2019年5月5日現在[14]
クラブ 就任 退任 記録
試合 勝ち 分け 負け 勝率 %
ウィコム・ワンダラーズ 1990年2月7日 1995年6月13日 262 140 63 59 053.4
ノリッジ・シティ 1995年6月13日 1995年12月17日 20 9 7 4 045.0
レスター・シティ 1995年12月21日 2000年6月1日 223 85 68 70 038.1
セルティック 2000年6月1日 2005年5月31日 282 213 29 40 075.5
アストン・ヴィラ 2006年8月5日 2010年8月9日 190 80 60 50 042.1
サンダーランド 2011年12月3日 2013年3月30日 66 21 20 25 031.8
アイルランド代表 2013年11月5日 2018年11月21日 55 19 20 16 034.5
ノッティンガム・フォレスト 2019年1月15日 2019年6月28日 19 8 3 8 042.1
合計 967 487 239 241 050.4

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i Said by O'Neill during lecture on theme of "What it means to be Irish", part of the Ireland Of Tomorrow - A Presidential Lecture Series Archived 2009年1月18日, at the Wayback Machine.
  2. ^ Martin O'Neill - Manchester City”. Sporting Heroes. 2014年9月7日閲覧。
  3. ^ Metcalf, Rupert (1993年5月10日). “Football: Prize at a price for Wycombe: Rupert Metcalf reports on the non-League history-makers with much to ponder after a victorious visit to Wembley”. The Independent. https://www.independent.co.uk/sport/football-prize-at-a-price-for-wycombe-rupert-metcalf-reports-on-the-nonleague-historymakers-with-much-to-ponder-after-a-victorious-visit-to-wembley-2322097.html 2012年4月23日閲覧。 
  4. ^ “O'Neill returns to Norwich”. The Independent. (1995年6月14日). https://www.independent.co.uk/sport/oneill-returns-to-norwich-1586454.html 2012年4月23日閲覧。 
  5. ^ Haylett, Trevor (1995年12月18日). “O'Neill's sudden resignation stuns Norwich”. The Independent. https://www.independent.co.uk/sport/football-oneills-sudden-resignation-stuns-norwich-1526278.html 2009年8月17日閲覧。 
  6. ^ O'Neill admits to Leeds agreement
  7. ^ Villa free O'Neill for England
  8. ^ O'Neill dismisses "unfair speculation
  9. ^ “Sunderland appoint Martin O'Neill”. Sunderland A.F.C.. (2011年12月3日). オリジナルの2012年7月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120713001004/http://www.safc.com/news/20111203/sunderland-appoint-martin-oneill_2256213_2536081 2011年12月3日閲覧。 
  10. ^ Edwards, Luke (2012年1月3日). “Sunderland's remarkable turnaround under Martin O'Neill continues apace with Wigan rout”. London: The Daily Telegraph. https://www.telegraph.co.uk/sport/football/competitions/premier-league/8977103/Sunderlands-remarkable-turnaround-under-Martin-ONeill-continues-apace-with-Wigan-rout.html 2012年3月3日閲覧。 
  11. ^ アイルランド代表、オニールが新監督 アシスタントはR・キーン
  12. ^ Bhoy wonder Archived 2010年2月22日, at the Wayback Machine.
  13. ^ O'Neill becomes OBE
  14. ^ “Martin O'Neils' managerial career”. Racing Post. オリジナルの2007年8月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070816194844/http://www.soccerbase.com/managers2.sd?managerid=932# 2010年2月26日閲覧。 

外部リンク 編集