ミールザー・ギヤース・ベグ

ミールザー・ギヤース・ベグペルシア語: مرزا غياث بيگ‎, Mirza Ghiyas Beg, 生年不詳 - 1622年1月)は、北インドムガル帝国の政治家・宰相。イティマード・ウッダウラペルシア語: اعتماد الدوله‎, I'timād-ud-Daulah)の称号でも知られる。

ミールザー・ギヤース・ベグ
مرزا غياث بيگ
ミールザー・ギヤース・ベグ
生年月日 16世紀中頃
出生地 イラン帝国テヘラン
没年月日 1622年
死没地 ムガル帝国カーングラーヒンディー語版付近
子女 アーサフ・ハーン
ヌール・ジャハーン

在任期間 1611年 - 1622年
皇帝 ジャハーンギール
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生涯 編集

 
イティマード・ウッダウラ廟

ミールザー・ギヤース・ベグはもともとサファヴィー朝に遠い縁戚であった。だが、同朝に仕えていた間に落ちぶれたため、1577年に家族とともにインドムガル帝国へと移住した[1][2]

その後、ミールザー・ギヤース・ベグは帝国の皇帝アクバルに仕え、その執事にとりたてられ、いくつかの公職にあった[2]。というのも、彼は大変教養のある知識人で、能筆家としても優れていたからである。

アクバルの死後、ミールザー・ギヤース・ベグはその息子ジャハーンギールにも重用され、「イティマード・ウッダウラ」(国家の柱)の称号を与えて帝国の宰相に任命した[1]。なお、1611年に娘のヌール・ジャハーンはジャハーンギールの妃に、1612年には孫のムムターズ・マハルはジャハーンギールの皇子フッラム(のちのシャー・ジャハーン)と結婚し、帝室と姻戚関係を結ぶことさえ成功した。

1610年頃から、ジャハーンギールは病気の発作を起こすようになり、帝国の国政は宰相ミールザー・ギヤース・ベグ、娘のヌール・ジャハーンや息子アーサフ・ハーンに握られていた[3]。この三人にジャハーンギールの後継者ともいえる皇子フッラムが加わり、事実上の四頭政治が始まった[2]

1622年1月、ミールザー・ギヤース・ベグはアーグラで死亡した。娘のヌール・ジャハーンはその死を悼んで、同年から1628年にかけてイティマード・ウッダウラ廟を建設した。

脚注 編集

  1. ^ a b クロー『ムガル帝国の興亡』、p.164
  2. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.214
  3. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.214-215

参考文献 編集

  • アンドレ・クロー 著、杉村裕史 訳『ムガル帝国の興亡』法政大学出版局、2001年。 
  • フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。 

関連項目 編集