ムィスウォヴィツェ

ポーランドの都市

ムィスウォヴィツェ(Mysłowice [mɨswɔˈvʲit͡sɛ]、ドイツ語:Myslowitz)はカトヴィツェの近くにある、南ポーランドシロンスク県の都市である。200万人の人口をもつ上シレジア都市圏連合(en:Upper Silesian Metropolitan Union)の南側に位置している。シレジア高地にあり、ヴィスワ川に合流するプシェムシャ川英語版ブリニツァ川英語版が流れる。

ムィスウォヴィツェ (Mysłowice)
ムィスウォヴィツェの旗 ムィスウォヴィツェの市章
位置
情報
: シロンスク県
緯度: 北緯 50°14'
経度: 東経 19°08'
面積: 65.75  km2
人口
 - 合計
 - 人口密度

74,085 人
1,126.8   人/km2
郵便番号: 41-400 ~ 41-412
市外局番: 48 032
市長: Dariusz Wójtowicz
公式サイト: 市公式ウェブサイト

1999年よりシロンスク県に属し、以前はカトヴィツェ県en:Katowice Voivodeship)に属していた。ムィスウォヴィツェは270万人のカトヴィツェ都市圏の都市の一つであり、約529万4000人[1]が住む大シレジア都市圏の中にある。2021年の人口は74,085人[2]である。

歴史 編集

ムィスウォヴィツェは上シレジア地方で最も古い都市の一つである。ヴロツワフからクラクフへの重要な通り道に位置している、白プシェムシャ川ポーランド語版黒プシェムシャ川ポーランド語版の合流地点にある。最も早いわずかな近代的な定住の痕跡は12世紀13世紀にさかのぼる。教区聖職者について最初に言及しているのは、1306年の文書である。1360年にはすでにムィスウォヴィツェは町として書かれている。何世紀かの間に、町の所有者はしばしば変わり、異なる国の間の境界を引いた。1871年にドイツ帝国が建国されたあと、この地域の両プシェムシャ川の合流点がオーストリア帝国ドイツ帝国ロシア帝国三国国境となったので、三帝の角(ドイツ語:Dreikaisereck)として知られるようになった。第一次世界大戦と1922年の国民投票の後、ムィスウォヴィツェや上シレジア地方の一部は新しい返還されたポーランドの一部となった。

教育 編集

ムィスウォヴィツェはGórnośląska Wyższa Szkoła Pedagogiczna im. Kardと呼ばれる大学レベルの施設の本拠地である。Augusta Hlonda(英語名:August Hlond College of Pedagogy)はul. Piastów Śląskich 10.にある。

ムィスウォヴィツェには8つの中学校と、5つの高等学校と専修学校がある。また、幼稚園は20あり、小学校は17校ある。

文化 編集

Off Festivalは2006年から毎年Artur Rojekによって開かれる音楽の祭りである。ムィスウォヴィツェからのバンドは彼らの故郷のをとって Myslovitzとしている。

脚注 編集

  1. ^ en:European Spatial Planning Observation Network (ESPON) アーカイブされたコピー”. 2009年7月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年3月28日閲覧。
  2. ^ Local Data Bank”. Statistics Poland. 2022年8月14日閲覧。 Data for territorial unit 2470000.

外部リンク 編集