リパニの戦い (リパニのたたかい、チェコ語Bitva u Lipan)又はチェスキー・ブロトの戦いは、1434年5月30日プラハの40km東のリパニで発生した戦い。 フス戦争を実質的に終わらせた。 ボヘミア同盟(ウトラキスト(穏健派フス派)+カトリック)が、大プロコプ率いる過激派フス派(ターボル派+シロッツィ)を破った。

リパニの戦い
フス戦争
1434年5月30日
場所チェスキー・ブロト英語版近郊のリパニ英語版
座標: 北緯50度01分43秒 東経14度56分13秒 / 北緯50.02861度 東経14.93694度 / 50.02861; 14.93694
結果 ウトラキストカトリックの決定的勝利
衝突した勢力

フス派過激派

フス派穏健派(ウトラキスト)

  • プラハ党
  • フス派貴族

ボヘミア王国

指揮官
プロコプ・ヴェリキー  
ヤン・チャペク・ゼ・サン英語版
小プロコプ英語版  en: Jan Roháč z Dubé(捕虜)
en:Diviš Bořek of Miletínek
Ulrich II von Rosenberg
戦力
10,700 14,300
被害者数
1,300人戦死
700人処刑
200人戦死

戦闘 編集

過激派は戦術的に有利な丘の上にワゴンブルクを布陣し、両軍は暫く睨みあった。 ウトラキストが交渉による平和的解決を試みたが、3日間の交渉は決裂した。 同盟は進軍したが、大砲の射程内には入らず撤退した。 過激派はワゴンブルクを解除して追撃したが、この撤退は過激派をワゴンブルクから引きずり出すための罠で、同盟の射撃に曝された。 同時に過激派陣地近くに隠れていた同盟軍の重騎兵が、開いたワゴンブルクに侵入した。 過激派は短時間で崩壊し、シロッツィ隊長のチャペクは部下と共に近くのコリーンに撤退した。 戦闘は軽装備の過激派への虐殺となり、大プロコプと小プロコプは戦死した。 ロハーチは捕虜となり、助命を約束されて投降した700人の一般兵は騙され、焼き殺された。

戦後 編集

ターボル派ははっきりと弱体化し、シロッツィに到っては軍団ですらなくなった。

1436年7月5日イフラヴァバーゼルの誓約が結ばれ、フス派の聖餐方式が認められ、翌年には異端認定が解除された。

8月、ジギスムントは全主要勢力に認められてボヘミア王となった。

ロハーチ率いるターボル派残党は、クトナー・ホラ近郊のシオン城に籠城したが、ジギスムント軍に破られ捕えられた。

1437年9月9日、ロハーチはプラハで絞首刑に処された。 彼は最期までジギスムントを王と認めなかった。

関連項目 編集

外部リンク 編集