ルイス・スアレス・ミラモンテス

スペインのサッカー選手・指導者 (1935-2023)

ルイス・スアレス・ミラモンテスLuis Suárez Miramontes, 1935年5月2日 - 2023年7月9日)は、スペインア・コルーニャ出身の元サッカー選手、元サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー。選手時代はスペイン代表であり、監督としてもスペイン代表を指揮した。

ルイス・スアレス
名前
本名 ルイス・スアレス・ミラモンテス
Luis Suárez Miramontes
愛称 Luisito[1](ルイジート)
El Arquitecto[2](エル・アルキテクト、建築家)
ラテン文字 Luis SUÁREZ
基本情報
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 (1935-05-02) 1935年5月2日
出身地 スペインの旗 スペインア・コルーニャ
没年月日 (2023-07-09) 2023年7月9日(88歳没)
イタリアの旗 イタリアミラノ
身長 175cm
体重 70kg
選手情報
ポジション MF / FW
ユース
ペルセベランシア
1949-1953 ファブリル
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1953-1954 スペインの旗 デポルティーボ・ラ・コルーニャ 17 (3)
1954-1955 スペインの旗 コンダル 21 (6)
1955-1961 スペインの旗 バルセロナ 122 (61)
1961-1970 イタリアの旗 インテル 256 (42)
1970-1973 イタリアの旗 サンプドリア 63 (9)
通算 479 (121)
代表歴
1957-1972 スペインの旗 スペイン 32 (14)
監督歴
1975 イタリアの旗 インテル
1975 イタリアの旗 サンプドリア
1975-1976 イタリアの旗 SPAL 1907
1976-1977 イタリアの旗 コモ
1977-1978 イタリアの旗 カリアリ
1978-1979 スペインの旗 デポルティーボ
1981-1989 スペインの旗 U-21スペイン代表
1988-1991 スペインの旗 スペイン代表
1992 イタリアの旗 インテル
1994 スペインの旗 アルバセテ
1995 イタリアの旗 インテル
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

1960年にはスペイン出身選手として初めてバロンドールに選出された。スペイン史上最高の選手のひとりとみなされており、エレガントで優雅なプレースタイルが特筆される[2][3]

経歴 編集

選手時代 編集

クラブ 編集

ガリシア地方ア・コルーニャに生まれ、1949年、14歳の時にデポルティーボ・ラ・コルーニャの下部組織であるファブリルSD(Bチームに相当する)に入団した[4]。1953年12月6日、FCバルセロナ戦でトップチームデビュー。デポルティーボではパイーニョアルセニオ・イグレシアスとともにプレーし、1953-54シーズンには17試合に出場して3得点を挙げた。

1954年夏にバルセロナに移籍したが、1954-55シーズンはセグンダ・ディビシオン(2部)のCDエスパーニャ・インドゥストリアルにレンタル移籍した。1955年にバルセロナに復帰するとレギュラーに定着し、ラディスラオ・クバラチボル・ゾルターンシャーンドル・コチシュアントニ・ラマレッツエヴァリストなどとともにプレーした。エレニオ・エレーラ監督が指揮し、1958-59シーズンにはプリメーラ・ディビシオン(1部)とコパ・ヘネラリシモ(現在のコパ・デル・レイ)のダブル(2冠)を達成。1958年のバロンドール投票では初めてノミネートされ、1959年の投票では4位の22ポイントを獲得した。1959-60シーズンにはリーグ戦とインターシティーズ・フェアーズカップのダブルを達成し、1960年のバロンドール投票では54ポイントを獲得して同賞を受賞した。1960-61シーズンのUEFAチャンピオンズカップ予選でリールセSK(ベルギー)を、1回戦で同大会5連覇中のレアル・マドリード(スペイン)[5]を、準々決勝でスパルタク・フラデツ・クラーロヴェー(チェコスロバキア)を、準決勝でハンブルガーSV(西ドイツ)を破って決勝に進出したが、エウゼビオを擁するSLベンフィカに2-3で敗れた。スアレスはストライカーではなくプレーメーカーだったが、バルセロナではちょうど2試合に1点の割合(122試合61得点)でゴールを決めた。

1961年、当時の史上最高額となる2億5000万リラ(14万2000ポンド)の移籍金でセリエAインテルに移籍した[2][4]。前年にはバルセロナ時代の恩師であるエレーラ監督がインテル監督に就任しており、再び彼の下で中心選手として活躍した。1960年代のインテルはグランデ・インテルと呼ばれる黄金期であり、セリエAで3回、UEFAチャンピオンズカップで2回、インターコンチネンタルカップで2回優勝した[6]。1961年のバロンドール投票では4位、1963年の投票では8位、1964年の投票では2位、1965年の投票では3位と、安定して高いレベルの活躍を見せ、インテルでは1970年までに328試合に出場して55得点を挙げた。

1970年にはUCサンプドリアに移籍。1972年に現役引退した。

スペイン代表 編集

1957年1月30日、オランダ代表戦(6-1)でスペイン代表デビューした。スペイン代表は1958 FIFAワールドカップは予選で敗退し、本大会に出場していない。1960 欧州ネイションズカップ(UEFA欧州選手権の前身)予選1回戦ではポーランドに勝利したが、2回戦(準々決勝、勝てば本大会出場)ではソビエト連邦との対戦を拒否して不戦敗となった。1962年にはチリで開催された1962 FIFAワールドカップに出場したが、ブラジル代表チェコスロバキア代表メキシコ代表と同居したグループの最下位でグループリーグ敗退に終わった。なお、同大会ではブラジルが優勝し、チェコスロバキアが準優勝している。

1964年にはジョゼップ・マリア・フステアマンシオ・アマロホセ・アンヘル・イリバルヘスス・マリア・ペレーダなどとともに、地元スペインで開催された1964 欧州ネイションズカップに出場。本大会はスペイン、デンマークハンガリー、ソビエト連邦の4ヶ国が出場し、トーナメント戦でいきなり準決勝から行なわれた。ハンガリー戦ではペレーダの先制点をアシストし、延長戦でアマンシオ・アマロが決勝点を挙げた[2]。決勝は前回大会王者のソビエト連邦との対戦となった。再びスアレスのクロスからペレーダが先制点を決め、マルセリーノ・マルティネスの決勝点もスアレスのペレーダへのパスが起点となった[2]。スペインの初優勝に大きく貢献し、自身は大会のベストイレブンに選出された。

1966年にはイングランドで開催された1966 FIFAワールドカップに出場し、フランツ・ベッケンバウアーを擁する西ドイツ代表アルゼンチン代表スイス代表と同組となったが、2大会連続でグループリーグ敗退に終わった。スペイン代表はUEFA欧州選手権19681970 FIFAワールドカップは予選で敗退し、本大会に出場していない。スペイン代表としては1972年までに32試合に出場して14得点を挙げた。

指導者時代 編集

現役引退後は指導者となった。ジェノアCFCのユースチームを指揮した後[7]、1975年に初めて古巣インテルの監督に就任し、インテルでは計3度(最初以外は暫定監督)に渡って采配を振るった。1980年から1982年にはU-21スペイン代表監督を務め、1988年にはミゲル・ムニョス監督の後任としてスペイン代表監督に就任。27試合を指揮し、イタリアで開催された1990 FIFAワールドカップでは2次リーグまで勝ち進んだ。

指導者を退いてからはインテルのスカウトなどを務めた[2]

晩年 編集

2023年7月9日ミラノで88歳で亡くなった[8]

タイトル 編集

クラブ 編集

  • バルセロナ
プリメーラ・ディビシオン優勝 (2) : 1958-59, 1959-60
コパ・デル・レイ優勝 (2) : 1956-57, 1958-59
インターシティーズ・フェアーズカップ優勝 (2) : 1957-58, 1959-60
  • インテル
セリエA優勝 (3) : 1962-63, 1964-65, 1965-66
UEFAチャンピオンズカップ優勝 (2) : 1963-64, 1964-65
インターコンチネンタルカップ優勝 (2) : 1964, 1965

代表 編集

  • スペイン代表
UEFA欧州選手権優勝 (1) : 1964

個人 編集

バロンドール投票の順位
所属クラブ 順位 ポイント 受賞者
1958 FCバルセロナ 14位 3ポイント   レイモン・コパ(71ポイント)
1959 4位 22ポイント     アルフレッド・ディ・ステファノ(80ポイント)
1960 1位 54ポイント 自分
1961 FCバルセロナ/インテル 4位 40ポイント   オマール・シヴォリ(46ポイント)
1962 インテル 15位 3ポイント   ヨゼフ・マソプスト(65ポイント)
1963 8位 5ポイント   レフ・ヤシン(73ポイント)
1964 2位 43ポイント   デニス・ロー(61ポイント)
1965 3位 45ポイント   エウゼビオ(67ポイント)

個人成績 編集

クラブ 国内リーグ 国内カップ 欧州カップ 通算
シーズン クラブ ディビジョン 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
スペイン 国内リーグ 国内カップ 欧州カップ 通算
1953–54 デポルティーボ プリメーラ 17 3 - - 17 3
1953–54 バルセロナ プリメーラ 0 0 7 0 - 7 0
1954–55 エスパーニャ・インドゥストリアル セグンダ
1954–55 バルセロナ プリメーラ 6 3 1 1 - 7 4
1955–56 17 6 2 0 0 0 19 6
1956–57 21 13 2 0 0 0 21 13
1957–58 12 2 6 5 2 2 20 9
1958–59 26 14 9 6 2 0 37 20
1959–60 23 13 2 0 10 1 35 14
1960–61 17 10 0 0 11 5 28 15
イタリア 国内リーグ 国内カップ 欧州カップ 通算
1961–62 インテル セリエA 27 11 - 5 4 32 15
1962–63 29 8 1 0 - 30 8
1963–64 27 3 - 9 1 36 4
1964–65 29 8 3 1 9 2 41 11
1965–66 27 5 2 0 7 0 36 5
1966–67 32 3 2 1 9 1 43 5
1967–68 29 2 9 1 - 38 3
1968–69 29 1 - - 29 1
1969–70 28 1 5 1 10 1 43 3
1970–71 UCサンプドリア セリエA 28 5 3 2 - 31 7
1971–72 27 4 4 1 - 31 5
1972–73 8 0 3 1 - 11 1
通算 スペイン 139 64
イタリア 320 51
通算

代表での出場記録 編集

[9]

スペイン代表
出場 得点
1957 6 4
1958 3 2
1959 5 5
1960 7 3
1961 1 0
1962 2 0
1963 1 0
1964 2 0
1965 2 0
1966 2 0
1967 0 0
1968 0 0
1969 0 0
1970 0 0
1971 0 0
1972 1 0
通算 32 14

代表での得点 編集

# 日付 場所 対戦相手 スコア 最終結果 大会
1. 1957年3月10日   マドリード   スイス 1–1 2–2 1958 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
2. 1957年3月31日   ブリュッセル   ベルギー 0–2 0–5 親善試合
3. 0–5
4. 1957年5月8日   グラスゴー   スコットランド 2–2 4–2 1958 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
5. 1958年3月13日   パリ   フランス 1–2 2–2 親善試合
6. 1958年10月15日   マドリード   北アイルランド 4–1 6–2 親善試合
7. 1959年6月28日   ホジュフ   ポーランド 1–1 2–4 UEFA欧州選手権1960予選
8. 1–3
9. 1959年11月22日   バレンシア   オーストリア 2–0 6–3 親善試合
10. 3–0
11. 1959年12月17日   パリ   フランス 0–1 4–3 親善試合
12. 1960年7月10日   リマ   ペルー 0–2 1–3 親善試合
13. 0–3
14. 1960年10月26日   ロンドン   イングランド 2–2 4–2 親善試合

脚注 編集

  1. ^ Luis Suárez descubre una placa más "tocante" que el Balón de Oro”. 2013年4月22日閲覧。
  2. ^ a b c d e f Luis Suarez Miramontes Goal.com、2012年5月25日
  3. ^ Luis Suárez[リンク切れ] FCバルセロナ公式サイト
  4. ^ a b Luis Suarez. The architect of football IBWM
  5. ^ 前回大会優勝クラブ枠で出場
  6. ^ The Greatest Offensive Midfielders of All-Time – Xtratime Community
  7. ^ Luis SUÁREZ 1958-1966PCSD
  8. ^ Fútbol: fallece Luis Suárez, el único Balón de Oro español” (スペイン語). Mundo Deportivo (2023年7月9日). 2023年7月10日閲覧。
  9. ^ Luis Suárez – Goals in International Matches

関連項目 編集

外部リンク 編集