ルネ=アントワーヌ・ウアス

フランス画家

ルネ=アントワーヌ・ウアスフランス語: René-Antoine Houasse, 1645年頃 - 1710年5月27日)は、フランス装飾画家[1]

ルネ=アントワーヌ・ウアス
René-Antoine Houasse
François Jouvenetによる肖像画
本名 René-Antoine Houasse
誕生日 1645年頃
出生地 フランス王国パリ
死没年 1710年5月27日(1710-05-27)
死没地 フランス王国パリ
国籍 フランス王国(ブルボン朝)
運動・動向 フランス・バロック
会員選出組織 王立絵画彫刻アカデミー
後援者 ルイ14世
影響を受けた
芸術家
シャルル・ルブラン
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略歴 編集

パリで生まれた。王室の筆頭画家シャルル・ルブランの弟子になり[2]、彼の監督の元で王立ゴブラン製作所英語版で働き、ヴェルサイユ宮殿トリアノンの装飾を行った[3]

1673年に王立絵画彫刻アカデミーの会員に選ばれた。1699年から1704年の間、在ローマ・フランス・アカデミーの校長を務めた。

1673年2月に、シャルル・ルブランの親戚の娘と結婚した。

ルネ=アントワーヌ・ウアスはグレコ・ローマン時代の女神であるアテーナーミネルウァが登場する様々な神話をモチーフとした一連の絵画を描いた。

パリで没した。

家族 編集

息子のミシェル=アンジュ・ウアス(Michel-Ange Houasse:1680-1730)は画家になり[2]、スペイン国王フェリペ5世の宮廷画家となった。娘のアグネス=スザンヌ・ウアス(Agnès-Suzanne Houasse: 1674-1719)は彫刻家のニコラ・クストゥー(Nicolas Coustou: 1658-1733)と結婚した[4]。もう一人の娘のマリー=シャーロット・ウアス(Marie-Charlotte Houasse: 1687年頃生まれ)は、1704年にローマで彫刻家のピエール・ルグロ(Pierre Le Gros: 1666-1719)と結婚した。

絵画 編集

脚注 編集

  1. ^ Henry Herluison, Actes d'état-civil d'artistes françcais, peintres, graveurs, architectes ..., p. 181, J. Baur, Paris, 1873 (lire en ligne (vue 188))
  2. ^ a b Dictionary of Rococo Art,"HOUASSE,MICHEL-ANGE (1680-1730)"
  3. ^ All Versailles, "THE STATE APARTMENTS"
  4. ^ Eugène Piot, Nicolas Coustou, p.180, Le cabinet de l'amateur: années 1861 et 1862, Librairie Firmin Didot frères, Paris, 1863 (lire en ligne)
  5. ^ 『虹の西洋美術史』 2012, p. 28.

参考文献 編集

  • Historical Dictionary of Rococo Art. Scarecrow Press. (2011). p. 144. ISBN 978-0810861831 
  • All Versailles. Casa Editrice Bonechi. (2006). p. 18 
  • Actes D'Etat-Civil D'Artistes Francais. (1871). p. 181. https://archive.org/details/gri_33125001961628 
  • 岡田温司『虹の西洋美術史』筑摩書房ちくまプリマー新書〉、2012年。ISBN 978-4-480-68891-0 

外部リンク 編集

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