ロディオン・シチェドリン

ロシア人の作曲家

ロディオン・コンスタンティノヴィチ・シチェドリン[1]ロシア語: Родио́н Константи́нович Щедри́н、ラテン文字転写の例: Rodion Konstantinovich Shchedrin, 1932年12月16日 - )は、ロシア人作曲家旧ソ連の指導的な作曲家の一人であり、1973年からソ連作曲家同盟の議長を務めた[2]

ロディオン・シチェドリン
Rodion Shchedrin
シチェドリンと妻のマイヤ・プリセツカヤ(2009年)
基本情報
生誕 (1932-12-16) 1932年12月16日(91歳)
出身地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦モスクワ
学歴 モスクワ音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 作曲家

人物・来歴 編集

1932年、モスクワの音楽家の家庭に生まれる。父親のコンスタンティン・ミハイロヴィチ・シチェドリン音楽理論の教師であり、また作曲家であった。父はヴァイオリンを弾き、また父と兄らがトリオを組んでいたため、音楽の溢れる環境で育った。 1941年に、モスクワ音楽院付属中央音楽学校に入学した。しかし、同年11月には世界大戦をさけてサマラへ家族と共に疎開する。大戦終了後、1944~1950年、アレクサンドル・スベシニコフが指導していたモスクワ合唱学校で学ぶ。その後、1950~1955年、サンクトペテルブルク音楽院で、作曲をユーリ・シャポーリン、ピアノをヤーコフ・フリエールの下で学ぶ。その後大学院に進んでユーリ・シャポーリンの指導を受け、1959年に卒業。1958年に、7歳年上のバレリーナ、マイヤ・プリセツカヤと結婚。1965~1969年、モスクワ音楽院で教える。

作曲家としての目立った活動に加えて、ピアノやオルガンヴィルトゥオーゾとしても活動しており、自作の6つのピアノ協奏曲のうち半数は手ずから人前で初演した。ソビエト連邦の崩壊後は、国際的な演奏旅行や協同制作の機会を利用しており、現在では、年間の活動の拠点をミュンヘンモスクワに分けて過ごしている。

作曲家としての長年の功労に対して、1989年ベルリン芸術アカデミーより正会員に任命され、1992年には当時の大統領 ボリス・エリツィンよりロシア国家賞を授与された。

家族・親族 編集

作風と受容 編集

初期作品が調性的で、色彩的な管弦楽法を採り、しばしば民族音楽の要素を断片的に取り入れているのに対して、後期の作品は、音列技法偶然性の音楽を取り入れている。西側では、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチらの活動を通じてシチェドリンの作品が知られるようになった。

シチェドリンは、概して舞台音楽の専門家として名高く、《せむしの仔馬》(1955年)や、(ショスタコーヴィチハチャトゥリアンに却下されてからシチェドリンの許に持ち込まれた企画物の)《カルメン組曲》(1967年)、《アンナ・カレーニナ》(1971年、レフ・トルストイ原作)、《犬を連れた婦人》(1985年)といったバレエ音楽や、《愛だけでなく》(1961年)や《死せる魂》(1976年、ニコライ・ゴーゴリ原作)といったオペラが知られているが、ほかにも6つのピアノ協奏曲や3つの交響曲、いくつかの室内楽曲ピアノ曲なども作曲している。ピアノ曲では、ショスタコーヴィチに倣って書かれた《24の前奏曲とフーガ》や、《ポリフォニーの手帳(25の前奏曲)》が重要である。

作品 編集

交響曲 編集

  • 交響曲 第1番(1958年
  • 交響曲 第2番 「25の前奏曲」 (1965年
  • 交響曲 第3番(2000年

協奏曲 編集

舞台音楽 編集

その他の管弦楽曲 編集

ピアノ曲 編集

室内楽曲 編集

声楽曲 編集

音源 編集

脚注 編集

注釈・出典 編集

  1. ^ 力点を考慮すれば「ラヂオーン・カンスタンチーナヴィチ・シシドリーン」に近い。
  2. ^ ただし、1990年に解任されている。
  3. ^ サントリーホール国際作曲委嘱シリーズの委嘱作品で、1987年初演時の写真がサントリーホールHPで確認できる。 初演指揮は十束尚宏(No.11:シチェドリン)
  4. ^ 日本人男子フィギュアスケート選手の南里康晴は、シチェドリンの《カルメン組曲》を2007年の競技に用いた。