上赤坂城

大阪府千早赤阪村にある城

上赤坂城(かみあかさかじょう)は、大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪にあった日本の城。「上赤阪城」と書くこともある。別名、楠木城。小根田城、桐山城とも言う。楠木七城の一つ。「楠木城跡(上赤阪城跡)」として国の史跡に指定されている。

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上赤坂城
大阪府
上赤坂城址
上赤坂城址
別名 楠木城、小根田城、桐山城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 楠木正成平野将監入道楠木正季
築城年 鎌倉時代末期:元弘2年(1332年)もしくは元弘3年(1333年
主な城主 楠木氏平野氏
廃城年 延文5年/正平15年(1360年
遺構 横堀、曲輪
指定文化財 国の史跡
再建造物 なし
位置 北緯34度26分52.8秒 東経135度37分50.9秒 / 北緯34.448000度 東経135.630806度 / 34.448000; 135.630806
地図
上赤坂城の位置(大阪府内)
上赤坂城
上赤坂城
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概要と沿革 編集

鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の本城である。 昭和9年(1934年3月13日、国の史跡に指定された。

現在、遺構として、等高線に沿った横堀と曲輪が認められる。これは、戦国期に改修を受けたものだと考えられる。

歴史 編集

 
難攻不落の名城上赤坂城を攻める鎌倉幕府の若武者本間資忠

元弘の乱の主要な舞台となった。元弘2年(1332年)の正成再挙兵後、新たに築いた当城が楠木氏の城の一つとなり、幕府軍に対抗した。元弘3年/正慶2年2月22日1333年3月8日)に発生した上赤坂城の戦いでは、平野将監入道楠木正季楠木正成の弟)が、鎌倉幕府の阿蘇治時長崎高貞結城親光らと戦った。閏2月1日3月17日)に上赤坂城は落城したものの、幕府軍を苦しめ、千早城で発生した千早城の戦いと合わせて、元弘の乱での後醍醐天皇勝利に大きく貢献した。

周辺の金剛山の尾根上には下赤坂城とともに猫路山城・国見山城・枡形城等の出城が築かれており、赤坂城塞群を形成していた[1]。この城塞群は南北朝期にも南朝方の拠点となったが、延文5年/正平15年(1360年)に北朝方の手に落ちた。

脚注 編集

  1. ^ 西山 昌孝他 編著「国史跡楠木城跡」『千早赤阪村埋蔵文化財調査報告書』5、千早赤阪村教育委員会、2008年。

参考文献 編集

  • 『日本史広辞典』 日本史広辞典編集委員会編、山川出版社、1997年。ISBN 978-4634620100

関連項目 編集

外部リンク 編集

全国遺跡報告総覧 奈良文化財研究所(上赤坂城)