久世 重之(くぜ しげゆき)は、江戸時代前期から中期にかけての大名老中官位従四位下讃岐守、のち大和守下総国関宿藩主、備中国庭瀬藩主、丹波国亀山藩主、三河国吉田藩主。関宿藩久世家2代。

 
久世重之
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 万治2年(1659年
死没 享保5年6月27日1720年8月1日
墓所 東京都豊島区本妙寺
官位 従四位下讃岐守大和守
幕府 江戸幕府寺社奉行若年寄老中
主君 徳川家綱綱吉家宣家継吉宗
下総関宿藩主→備中庭瀬藩主→丹波亀山藩主→三河吉田藩主→下総関宿藩主
氏族 久世氏
父母 久世広之:不詳
兄弟 重之遠山友貞正室、松平重治正室、内田正衆正室ら
正室土井利房の次女
暉之広籌広般松平康員正室、石川総慶正室ら
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生涯 編集

関宿藩初代藩主・久世広之の3男として誕生。

延宝7年(1679年)に関宿藩主となって以来、重之一代の間に下総関宿藩千葉県野田市関宿三軒家)から備中国庭瀬藩岡山県岡山市北区庭瀬)ついで丹波国亀山藩京都府亀岡市)さらに三河国吉田藩愛知県豊橋市)へと転封を続け、宝永2年(1705年)に再び関宿に復帰する。元禄9年(1696年)11月に但馬国出石藩小出氏が無嗣断絶となった際に出石領内で暴動が起こったが、隣国亀山藩を領していた重之がこれを鎮圧している。

幕府では45歳のときに三河吉田藩主時に寺社奉行に起用されたのを皮切りに、若年寄、ついで、下総関宿藩主になった翌年からの正徳3年(1713年) - 享保5年(1720年)、老中を務める。この時期1万石を加増され、都合6万石となる。また、新井白石の学問の崇拝者として知られ、幕閣に味方の少ない正徳の治を側面から支持し、正徳金鋳造の責任者を担当している。

重之の死後、家督は四男の暉之が継いだ。

逸話 編集

土芥寇讎記』に拠れば、若いころは男色に耽り、色白で化粧をした男性を好んでいたが、長じてその趣味を止めた、とされている。また同書では「(儒学に対して)無学無能」とされている。

経歴 編集

墓所は本妙寺東京都豊島区

系譜 編集

父母

正室

子女