亀甲船(きっこうせん、朝鮮語: 거북선、コブクソン)または亀船(龜船、きせん、: 귀선、キソン)は、李氏朝鮮時代に存在したとされる朝鮮水軍の軍艦。ただし、日本側には亀甲船と交戦した記録はない。朝鮮側の当時の記録にも竣工した記録はない。亀甲船が日本軍と交戦した記述は全て後年の著作にのみ現れる。残骸も発見されていない。

ソウル特別市戦争記念館に展示されている亀甲船(復元)。鉄製の屋根の存在については論争がある。

史書の記録 編集

 
1795年に描かれた亀甲船の絵画。船体の木製の装飾はこの絵が描かれた同年代のもの。『李舜臣行録』などの記述を元にしている。

亀甲船は複数の史書にその存在が記されている軍艦である。ただし、運用されたとされる同時代の記録には一切無く、全てが後世に巷談的に書かれたものである。

李舜臣の甥の李芬が著した『李舜臣行録』と、乱から200年後に編纂された『李忠武公全書朝鮮語版』(『乱中雑録(乱中日記)』)には構造についての記載が行われている。

亀甲船についての記述が初めて登場するのは15世紀の太宗実録であり[1]、近海の警備に使われていたらしく、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)で5隻が運用されたとされる。

  • 李舜臣行録
    「亀甲船の大きさは、板屋船(当時の主力戦艦)とほぼ同じく上を板で覆い、その板の上には十字型の細道が出来ていて、やっと人が通れるようになっていた。そしてそれ以外は、ことごとく刀錐(刀模様のきり)をさして、足を踏み入れる余裕も無かった」、「前方には竜頭を作り、その口下には銃口が、竜尾にもまた銃口があった。左右にはそれぞれ6個の銃口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ」、「戦闘になると、かや草のむしろを刀錐の上にかぶせてカモフラージュしたので、敵兵がそれとも知らず飛び込むとみな刺さって死んだ。また、敵船が亀甲船を包囲するものなら、左右前後から一斉砲火をやられた」

構造 編集

後世になって書かれた『李忠武公全書』には2枚の図面が掲載され、694文字の記載が行われている[2]が、実際の亀甲船を見て書かれたわけではなく、そもそも実在の証明にはなっていない。

同書に登場する船は船体上部と下部とに分かれており、上部は11〜13尺(朝鮮の尺)、下部は7.5尺、全高は18.5〜20.5尺程度となる[2]。上部にはなだらかなアーチ状の屋根がついており、下部との連結部分は14本の駕木というで連結されている[3]。上部の蓋板上には刀錐がびっしりと埋め込まれている[4]。日本側の記録や、申采浩など朝鮮側の後世の記述では鉄甲船説があるが[5]、『李忠武公全書』には鉄板に関する記載はない[4]

材質はマツの木が用いられているが、当時の朝鮮ではマツは軍船用にのみ使うものとして、国家によって管理されていた[4]。日本側の軍船ではヒノキスギが主に使われていたが、松材はこれらより頑丈であった[4]。前部には龍の頭、後部には尾のような構造物が取り付けられている[4]

図によれば20丁の(1丁30尺)が出ており、1丁につき4人の漕ぎ手と1人の班長が従事した[4]。 趙成都と桜井健郎の考証と推定では、6ノット程度の速度は余裕で出せるとしており、これは当時日本で用いられていた快速艇小早船に匹敵するものと見られている[6]。ただし、艪の向かい角が大きく、漕ぎ手の出力に対して失速状態にあったとみられる[4]

評価 編集

1908年頃に李舜臣を民族の英雄として顕彰した複数の記事を書いた申采浩は、亀甲船を世界における鉄甲船の元祖であると高く評価した[5]。また1915年に『李舜臣伝』を書いた朴殷植も亀甲船の独自性を高く評価した[5]。こうしたこともあり、朝鮮半島の一般社会では壬辰倭乱(文禄・慶長の役)における海戦の勝利を李舜臣の海戦術と亀甲船によるものであるとする認識が強く持たれている[7]。これらは全て、史料を軽視し、世界史および世界の船舶史を無視した、いわば無学によって成り立つ論説である。


大韓民国における朝鮮水軍の研究においても亀甲船の研究が行われているが、そもそも壬辰倭乱(文禄・慶長の役)期の亀甲船の具体的な記録が一切ないため、研究者間でもその規模や構造については議論がある[8]が、史料が無い以上、空想の産物である以上の明確な解は得られていない。また亀甲船に関わる問題点の研究も進められている[7]

創作的復元 編集

現在、慶尚南道昌原市鎮海区海軍士官学校博物館で研究者らの推定で製作された亀甲船が展示されている。同海軍士官学校の学生は、在学中に一度は必ず亀甲船での航海を体験し、(史実ではない)「伝統」を学ぶ。毎年、の花が咲く十日間の軍港祭期間中のみ一般公開されており、十人程度の一般客が乗り込む事ができるようになっている。

慶尚南道では亀甲船を2011年末にかけて復元し、観光商品化すると明らかにした。新説に基づいて3階構造の亀甲船と板屋船など4隻が新造された[9]

2013年1月、巨済島に運ばれて水上展示される予定だった再現船が、曳航中に浸水し、緊急修理に入る事故があった。製作費は7億ウォン以上を要したとされる[10][11]

ゲーム等の創作物 編集

脚注 編集

  1. ^ 『太宗実録』十三年二月五日甲寅
    上過臨津渡觀龜船倭船相戰之狀
    『太宗実録』十五年七月十六日辛亥
    其六龜船之法衝突衆敵而敵不能害可謂決勝之良策更令堅巧造作以備戰勝之具
  2. ^ a b 桜井健郎 2001, p. 325.
  3. ^ 桜井健郎 2001, p. 325-326.
  4. ^ a b c d e f g 桜井健郎 2001, p. 326.
  5. ^ a b c 崔永昌 2019, p. 6.
  6. ^ 桜井健郎 2001, p. 326-327.
  7. ^ a b 朴晢晄 2005, p. 410.
  8. ^ 朴晢晄 2005, p. 406.
  9. ^ “3階構造の亀甲船を復元して観光商品に”. 中央日報. (2009年12月11日). http://japanese.joins.com/article/822/123822.html 
  10. ^ “거제 오던 ‘거북선’ 여수 앞바다서 침수”. newsgn. (2013年1月15日). http://www.newsgn.com/sub_read.html?uid=35247 
  11. ^ [취재후 이순신 장군 창피하게 만든 ‘거북선’]” (朝鮮語). KBS 뉴스. 2021年12月30日閲覧。

関連項目 編集

参考文献 編集

  • 桜井健郎「談話室 李舜臣提督と亀船」(PDF)『ながれ : 日本流体力学会誌』第20巻第4号、日本流体力学会、2001年8月、325-327頁、CRID 1520290884205473152ISSN 02863154NAID 10007250595 
  • 崔永昌韓国から見た壬辰倭乱」(PDF)『第59回SGRAフォーラム講演録「第3回日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性─17世紀東アジアの国際関係─戦乱から安定へ」』、関口グローバル研究会、2019年。 
  • 朴晢晄「壬辰倭乱(文禄・慶長の役)研究の現況と課題」『第2期日韓歴史共同研究報告書 第2分科会(中近世史)篇』、日韓歴史共同研究委員会、2005年。 

外部リンク 編集