二条為世

1250-1338, 鎌倉時代後期~南北朝時代初期の公卿、歌人。二条為氏の長男。官位は正二位・権大納言。藤大納言とも呼ばれた。勅撰集『続拾遺和歌集』以下に177首入集

二条 為世(にじょう ためよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての公卿歌人。歌道二条派の祖二条為氏の長男。極官が権大納言だったので藤大納言とも呼ばれた。

 
二条 為世
時代 鎌倉時代中期 - 南北朝時代
生誕 建長2年(1250年
死没 延元3年/建武5年8月5日1338年9月18日
改名 為世→明融(法名)
別名 藤大納言
官位 正二位、権大納言
主君 後深草天皇亀山天皇後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇光厳天皇→後醍醐天皇
氏族 御子左家
父母 父:二条為氏、母:飛鳥井教定の娘
兄弟 為世為雄為実為言
正室:賀茂氏久の娘
側室:菅原公氏女、津守国助
為道為藤為宗為躬為冬為子尊治親王(後の後醍醐天皇)妃、尊良親王母・宗良親王(尊澄法親王)母)、昭訓門院春日局西園寺実衡室)、室町院大納言局、娘(藤原兼信室)
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生涯 編集

弘安6年(1282年)に参議となり、その後、正二位大納言に至った。大覚寺統(後の南朝)の天皇に近侍し、持明院統(後の北朝)の伏見天皇に近侍した従弟の京極為兼と鋭く対立した。嘉元元年(1303年後宇多上皇の命を受け『新後撰和歌集』を撰進している。延慶2年(1309年)頃、為兼と勅撰和歌集の撰者の地位をめぐって争い[1]、為世は敗れて為兼が『玉葉和歌集』を撰進することとなった。元応2年(1320年)には後宇多上皇に『続千載和歌集』を撰進している。門弟として地下出身である浄弁頓阿兼好慶運などを育て二条派を広め、自身は二条派の宗匠としてその歌風を完成させた。元徳元年(1329年)に出家し、法名を明融とした。延元3年(1338年8月5日、89歳で薨去。

家集に「為世集」(後人の撰集)がある。また、伝存する為世の自筆として、数枚の短冊と古筆切『五条切』がある。他にも、歌論書『和歌庭訓』がある。『続拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集や、『続現葉和歌集』などの私撰和歌集、『嘉元仙洞御百首』『文保御百首』などの定数歌にも多数入集。歌風は平淡美を尊び、余情ある歌を詠んだと評される。

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ 延慶両卿訴陳状』はその論争の一部である。