井口資仁

日本の野球指導者、元プロ選手 (1974-)

井口 資仁(いぐち ただひと、本名:井口 忠仁〈読み同じ〉、1974年昭和49年〉12月4日 - )は、東京都田無市(現:西東京市)出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)[3]監督解説者評論家

井口 資仁(井口 忠仁)
千葉ロッテマリーンズ監督時代
(2019年4月2日、東京ドームにて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都田無市
(現:西東京市
生年月日 (1974-12-04) 1974年12月4日(49歳)
身長
体重
178[注釈 1] cm
91[注釈 2] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手遊撃手一塁手
プロ入り 1996年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 NPB / 1997年5月3日
MLB / 2005年4月4日
最終出場 MLB / 2008年9月28日
NPB / 2017年9月24日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 千葉ロッテマリーンズ (2018 - 2022)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 1996年
オリンピック
男子 野球
日本の旗 日本
オリンピック
1996年

福岡ダイエーホークス千葉ロッテマリーンズ時代に日本シリーズ優勝を3度、シカゴ・ホワイトソックスフィラデルフィア・フィリーズ時代にワールドシリーズ優勝を2度、それぞれ経験している。

2018年シーズンから2022年シーズンまでロッテの監督を務めていた[4]

経歴 編集

プロ入り前 編集

生い立ち 編集

東京都田無市(現:西東京市)で生まれる。軟式野球チーム「ビクトリー」で捕手として野球を始め、小学6年時に硬式野球チームの「保谷リトルリーグ」に移り、内野手に転向。小学校と中学校では最高学年で主将を務める。中学3年時には全国大会に出場した。

國學院久我山高等学校でも遊撃手としてプレー。1991年、2年の夏に3番・遊撃手として全国大会に出場。2年の秋から主将を務めたが、翌1992年の春と夏の甲子園全国大会出場を逃した。

1993年に青山学院大学へ進学後も遊撃手として同大学野球部でプレー。1年からリーグ戦に出場し春のリーグ戦では優勝がかかった5月19日の駒澤大学戦にて、1点リードされた8回に走者2人を置いて(この時の走者の1人はプロでもチームメイトになる小久保裕紀)井口が逆転決勝点となる二点適時打を放ちそのまま勝利。青山学院大学としては7季ぶり3度目のリーグ優勝を果たした。1996年、4年の春から秋まで主将を務める。同年にはアトランタオリンピック野球日本代表に選ばれ、銀メダル獲得に貢献した。オリンピックにてキューバ代表のプレーに衝撃を受けたことが、後のメジャー挑戦を意識するきっかけになった[5]

大学時代は、同期のチームメイトである澤崎俊和清水将海倉野信次などと一緒に全日本大学野球選手権大会の優勝を始め、多くの輝かしい実績を残した。個人としても、1番・遊撃手の「青い核弾頭」として活躍した。大学2年次の1994年秋には東都大学リーグ史上2人目となる三冠王(1972年秋に中大藤波行雄が達成)となり、同94年秋にリーグ記録となる1シーズン8本塁打を記録[注釈 3]。翌1995年にマークした年間最多本塁打記録の12本(1995年春7本・秋5本)は、通算最多本塁打記録の24本と共に2023年現在まで破られていない[注釈 4]。大学通算成績は101試合出場、366打数、103安打打率.281、24本塁打、61打点、32盗塁。また、最高殊勲選手2回、ベストナイン4回の受賞の経験がある。

プロ野球の各チームの争奪戦の末、福岡ダイエーホークス逆指名[6]ドラフト会議でダイエーが1位指名。契約金1億円、出来高払い5000万円、年俸1300万円(金額は推定)で入団した[7]。背番号は「7」に決まった。

大学のチームメイトでは澤崎が広島東洋カープ1位(逆指名)、清水が千葉ロッテマリーンズ1位(逆指名)でそれぞれ入団し、同一大学から同時に3人の逆指名選手・ドラフト1位選手を輩出している。

プロ入り後 編集

ダイエー時代 編集

1997年
オープン戦で右足首を捻挫したために開幕には間に合わず、5月3日、福岡ドームでの対近鉄バファローズ戦で2番・遊撃手として一軍初出場。1回裏のプロ初打席山崎慎太郎から一軍での初安打となる左前安打を放ち、4回裏の3打席目では山崎から一軍での初本塁打となる左越え満塁本塁打を放つ、鮮烈なデビューを飾った[8]。外国人選手を除き、新人選手のデビュー戦満塁本塁打はプロ野球史上初の快挙だった。しかし、順調な滑り出しとは裏腹に、その後は低打率に苦しみ、主に下位打線で起用される。年末にはアメリカ合衆国ハワイ・ウインターリーグ松中信彦らと一緒に派遣され、ウェストオアフ・ケーンファイアーズに所属した。
1998年
開幕当初は1番として起用されたが、その後は9番など下位打線に回ることが多かった。打率はリーグ最下位となる.221と低迷したものの、リーグ12位の21本塁打を放ち、「恐怖の9番」と言われた。また、7月5日の対ロッテ戦では吉田篤史からランニング本塁打を放った。
1999年
開幕から3番や1番を任されるものの、その後は打率の低迷により、前年と同様下位打線で起用されるようになる。打率はリーグ最下位の.224に終わったものの、優勝争いの中でサヨナラ打を3度記録する[注釈 5]など、勝負強さを発揮した。9月8日の首位攻防となる対西武ライオンズ戦では西崎幸広からサヨナラ満塁本塁打を放ち[10]、試合前に西武が敗れてマジック1で迎えた9月25日の対日本ハムファイターズ戦でも金村暁から決勝本塁打を放つ[12]など、ダイエー初のリーグ優勝、日本シリーズ優勝に貢献した。
2000年
この年も下位打線を任されていたが、レギュラーシーズン中に左肩を負傷し、手術を行い、長く戦列を離れ、その間に遊撃手のポジションを鳥越裕介に奪われた。日本シリーズで戦列に復帰したが、リーグ優勝記念旅行にも参加せず、年末には登録名を本名の「忠仁」から「資仁」に変更。
2001年
守備面では二塁手コンバートされ、走塁面ではコーチの島田誠の助言から目標を盗塁王に定めて臨んだ。3番として定着し、打率.261、史上3人目の30本塁打、40盗塁を記録し、44盗塁で盗塁王のタイトルを獲得。ベストナインゴールデングラブ賞を受賞した。この年、井口が30本塁打を記録したのに加え、松中が36本塁打、小久保裕紀が44本塁打、城島健司が31本塁打を記録し、パシフィック・リーグ初の30本カルテットを形成。日本人のみの30本カルテットはプロ野球史上初の快挙だった。8月15日の西武戦では豊田清からサヨナラ本塁打を放った[13]。11月には台湾で開催された第34回IBAF(国際野球連盟)ワールドカップの日本代表には、高橋由伸井端弘和や高校生で唯一メンバー入りした寺原隼人らと一緒に選ばれ、3番・二塁手として出場した。
2002年
ストライクゾーン改正もあり、前年に比べて投高打低化し、リーグ平均打率は.255だったが、井口自身は打率.259(リーグ24位)とリーグ平均打率を上回った。
2003年
6月8日の対日本ハムファイターズ戦で5試合連続の猛打賞[14]、7月26日の対オリックス・ブルーウェーブ戦で1試合4二塁打[15]の日本タイ記録を達成した。開幕戦は7番で迎えたが、レギュラーシーズン途中から3番としてほぼ定着し、ダイハード打線の中心を担った。打率.340(リーグ4位)、27本塁打(リーグ12位)、109打点(リーグ5位)を記録し、OPS1.011(リーグ4位)はチームトップだった。2度目のベストナインとゴールデングラブ賞にも選ばれた。また終盤に村松有人骨折で離脱したこともあり、2年ぶりの盗塁王(42盗塁)に輝き、松中、城島、ペドロ・バルデスと共に史上初の100打点カルテットを形成した。日本シリーズでは本塁打を2本放ち、優秀選手に選ばれた。
一時ポスティングシステムでのメジャー移籍を球団から承認されていたが、小久保の読売ジャイアンツへの移籍により否認され、契約更改では「オーナーの中内正の経営体制が刷新した場合、または高塚猛がオーナー代行を辞任した場合、自由契約の選択権は井口にある」との覚書を交わした。
2004年
開幕から3番に座ったが、1番として起用されることも多く、城島がアテネオリンピック出場により離脱した期間には代役として5番も務めた。公式戦最終戦の9月23日の日本ハム戦ではサヨナラ本塁打を放った[16]。レギュラーシーズンでは打率.333(リーグ4位)、24本塁打(リーグ12位)、89打点(リーグ8位)を記録した[17]。年末には高塚が部下への強制猥褻罪の容疑で逮捕されたために辞任したことを受け、前年に交わした覚書によって自由契約を選択し、MLBに挑戦することを表明。

ホワイトソックス時代 編集

 
2006年、ホワイトソックス時代
(当時31歳)
2005年
シカゴ・ホワイトソックスと2年470万ドルで契約(3年目は年俸330万ドルのチームのオプション)。開幕戦となった4月4日の対クリーブランド・インディアンス戦に2番・二塁手として初出場。開幕2戦目となる4月6日のインディアンス戦ではケビン・ミルウッドからメジャー移籍後初安打を二塁打で記録(同試合で初盗塁も記録)。5月3日の対カンザスシティ・ロイヤルズ戦ではブライアン・アンダーソンから左翼席へメジャー初本塁打を放った。その後もスコット・ポドセドニックと一緒にホワイトソックスの「スモール・ボール(監督のオジー・ギーエンが命名した名前は「スマート・ボール」)」を牽引。この年は打率.278、OPS.780を記録。特にホームでは好調で、打率.304[18]、OPS.830[18]の好記録を叩き出した一方、ビジターでは打率.248[18]、OPS.724[18]とホームでの時に比べると苦戦を強いられ、本拠地(USセルラー・フィールド)に恵まれた数値が示された。
ポストシーズンでは10月5日の前年度ワールドチャンピオン、ボストン・レッドソックスとのアメリカンリーグ・ディビジョンシリーズ第2戦で決勝の逆転3点本塁打を放つ活躍などを見せ、移籍1年目でリーグ優勝に貢献した。その後、ワールドシリーズに出場。日本人選手としては新庄剛志松井秀喜田口壮に次ぐ4人目のワールドシリーズ出場選手となった。ワールドシリーズ優勝にも貢献し、日本人では伊良部秀輝に次いで2人目のチャンピオンリングを獲得した。伊良部はワールドシリーズに出場しておらず、実際に出場してリングを獲得したのは井口が初めてである。しかし、最後の打席後に交代し、優勝決定の瞬間はベンチにいたため、「優勝した瞬間グラウンドにいた最初の日本人選手」の座は翌年の田口に譲ることになった。また、日本人で初めて日本シリーズとワールドシリーズの両方を制覇した選手となった。レギュラーシーズン終了後には、両リーグから選ばれる新人ベストナインに二塁手部門で選ばれる[19]。後にこのシーズンについて自己犠牲を強いられる役割には不満があったと語るが、ギーエンの「今年のMVPは井口。井口みたいな野球を深く理解している選手はいない。彼がいたからホワイトソックスはワールドシリーズを制覇出来た」という言葉で救われたという[5]
2006年
 
二塁を守る井口資仁(2006年)
ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれる。当初井口は「すべてのプロ野球選手が出場を望んでいる大会。1年ぶりに王貞治監督の下で野球ができることを楽しみにしている」と発言していたが[20]、その後辞退。井口は「2年目は、1年目以上のものを求められる。そのためにはチームのキャンプでアピールしないといけない。」などと語り、1月6日に大リーグの東京事務所を通じ監督の王にファックスを出したことを明かした[21]。王は「井口の欠場は個人的な理由だからしょうがない。出ますというベストの選手の中でやっていくしかない。」と語った[21]
5月20日の対シカゴ・カブス戦で1試合6打点を、6月25日の対ヒューストン・アストロズ戦で1試合7打点を記録。レギュラーシーズン通算では打率.281、18本塁打、OPS.774の記録を残したが、ホームでは打率.313[22]、OPS.853[22]、ビジターでは打率.249[22]、OPS.695[22]と前年と同様にビジターで苦戦したことに加え、本拠地が考慮されるOPS+では平均を下回る[23]など、本拠地に恵まれた数値が示された。ギーエンは「打点の稼げるスラッガーになろうとしてメジャーの世界にやって来たのに、2年間、今までやったことがないことを良くやってくれた」とコメントした他、レギュラーシーズン終了直後には直々に「お前にはかなり我慢させてしまった。今年だって本当なら20本以上の本塁打を打っていたはずだし、打率も3割を越えていたはずだ。来年はもっと自由に打たせる」と言われたという[5]。12月29日の東京証券取引所の大納会にゲストとして招かれた。
2007年
開幕直後に怪我をしていながらも強行出場していたこともあったために低調なスタートを切った。

フィリーズ時代 編集

2007年7月27日には右手を骨折したチェイス・アトリーの代役として、マイケル・ダビーとのトレードでフィラデルフィア・フィリーズへ移籍した。

フィリーズではアトリーの復帰までは先発で二塁手を務めたが、アトリーの復帰後は監督のチャーリー・マニエルから三塁手への転向を勧められたが、これを固辞。そのため、主に代打での出場となり、フィリーズ移籍後は打率.304を残した。ポストシーズン終了後には「現在は永住権を申請中であり、来季は二塁手のレギュラーとして起用してもらえるチームを中心に移籍先を探す。」と言う発言をした。

パドレス時代 編集

2007年12月18日にサンディエゴ・パドレスと1年385万ドルで契約を結んだ。

 
2008
2008年
4月中は32打席連続無安打になるなど、絶不調に陥ったが、4月26日の対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で日本人選手史上2人目となるサヨナラ本塁打を記録。5月16日の対シアトル・マリナーズ戦ではダイエー時代のチームメイトだった城島と2004年10月1日のパ・リーグのプレーオフ第2ステージ対西武戦の第5戦以来、1313日ぶりに本塁打を競演。その後も二塁手として出場していたが、3安打を放った6月5日の対ニューヨーク・メッツ戦では走塁中に転倒して右肩を脱臼。6月6日にメジャー4年目で初の故障者リスト入りとなった。8月2日に復帰したが、脱臼した右肩の影響などで調子が上がらず、9月1日に解雇される。

フィリーズ復帰 編集

2008年9月5日に前年に所属したフィリーズと契約。その後フィリーズはポストシーズンに進出。井口の入団はポストシーズン出場選手登録期限後のため出場資格はなかったが、同年にフィリーズに所属していた田口壮と一緒に2個目のチャンピオンリングを手にすることになった。

ロッテ時代 編集

2009年
1月20日にロッテと年俸1億8000万円の3年契約を結んで入団。複数年契約を提示したフィリーズを始め、当時複数のメジャーチームから三塁手としてのオファーがあったが、家族の生活環境と二塁手としてのオファーを優先しロッテへの入団を決めたという[5]。背番号は初芝清が2005年に現役を引退して以降準永久欠番扱いとなっていた「6」に決まった。石垣島での開幕前のキャンプではダイエー時代に行っていた朝練習を竹原直隆と一緒に敢行。開幕から4番を務め、4月7日には史上7人目となる全打順本塁打を日本プロ野球通算150本塁打で放った。不振で途中から4番を外されたが最終的に123試合に出場し、打率.281、19本塁打を記録した。
2010年
自らトリプルスリーを目標に掲げた年だった[24]。打率.294、17本塁打、2盗塁と目標には届かなかったが、3番・二塁手に定着し、自己最多の143試合に出場して得点圏打率は.340と高い数値を記録。また、リーグ2位の103打点を記録した[注釈 6][注釈 7]。また、四死球112と二塁打44はいずれもリーグトップだった。NPB/MLB通算1500本安打も達成し、チームはレギュラーシーズンでは3位に終わったが、クライマックスシリーズではリーグ優勝したソフトバンクを下して日本シリーズに進出し、日本一を達成した。
 
2011年、ロッテ時代
二塁守備につく井口(当時36歳)
2011年
この年から導入された統一球の影響もあり前年に比べて大きく成績を落としたものの、140試合でチームトップとなる9本塁打、73打点を記録する。しかし、チームはリーグ最下位に終わった。
2012年
5月28日の広島戦で5回表にブライアン・バリントンから左中間へ3点本塁打を放ち、史上98人目となる日本プロ野球通算200本塁打を達成した。同年の打率、打点の成績は前年より成績を落とすが、チーム最多の140試合に出場し、本塁打は2年ぶりの2桁本塁打となる11本(チームトップ)を記録し、自身初のリーグベストテン入り(7位)を果たした。
2013年
開幕当初は二塁手として起用されたが、この年からは一塁手にも挑戦することになった。4月16日の日本ハム戦では一塁手として先発出場し、NPB/MLB通算250本塁打を含む4打数4安打で3打点を挙げた。指名打者として出場する時もある。5月は9本塁打、20打点、長打率.663の成績で自身3度目の月間MVPを獲得[25]。7月26日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で田中将大からこの日2本目の安打を本塁打として、NPB/MLB通算では史上5人目となる2000本安打を達成[26]。なおこの試合はサヨナラ負けを喫し、田中の連勝が続くこととなった。7月終了時点で打率.328、19本塁打と好調だったが、8月、9月には月間打率2割台前半を記録[27]するなど不振に陥った。最終的に135試合出場、打率.297(リーグ11位)、23本塁打(リーグ7位)、83打点(リーグ9位)を記録し、長打率、OPSの数値はロッテ移籍後最高だった。
クライマックスシリーズの第1ステージでは打率.333、2本塁打[28]の活躍でファイナルステージ進出に貢献したが、ファイナルステージでは打率.154、0本塁打[29]と不振に陥った。チームもファイナルステージで敗退し、日本シリーズ出場を逃した。第1ステージ、ファイナルステージの通算では打率.227、2本塁打を記録した[27]
2014年
開幕から一塁手として起用され、4月16日の対西武戦で3年ぶりとなる2打席連続本塁打を放つ[30]など春先は好調を維持する。しかし以後は右手中指の腫れもあって成績を落として移籍後最低の打率に終わり、109試合に出場したものの日本球界復帰後初めて規定打席にも到達しなかった。シーズン後に右手中指の手術を予定していたが、検査結果を受けて回避することを決めた[31]。契約更改では前年に3年契約を結んでいたことを明かした[32]
2015年
8月28日のオリックス戦で350二塁打を達成した[33][34]。 代打での起用が多く、87試合で打率.247、本塁打6、打点28に終わった。
2016年
この年から日本球界最年長野手となった。7月29日、パ・リーグ最年長選手であったケニー・レイ(楽天)の退団に伴い、新たにパ・リーグ最年長選手となった。[要出典]当シーズンもスタメンと代打の交互での起用が多く、最終的には79試合の出場で打率.257、本塁打5本、打点34で終えた。
2017年
パ・リーグ最年長選手となった[注釈 8]。6月20日に球団公式サイトを通じて同年限りで引退することを発表し[35]、「まだシーズンの途中ですが、今シーズン限りで引退することを決めました。ここまで長くプレーしてきて、色々な思い出はありますが、まだ振り返りません。今は一つでも多くの勝利と一つでも上の順位を目指し、チームの力となって全力を尽くしていきたい。そして、残りのシーズンで今まで以上の思い出を作っていけたらいいと思います。打席に入る時のマリーンズファンの声援は力になります。残りの試合でも今まで以上の熱い声援を宜しくお願いします」とコメントした[35]引退試合となった9月24日の本拠地ZOZOマリンスタジアムでの日本ハム戦では、始球式を長女が務めた[36]。試合では6番・指名打者で出場し、2点ビハインドで迎えた9回裏の第4打席、無死一塁で増井浩俊からバックスクリーン右へ同点本塁打を放った。その後延長11回裏の第5打席は右飛に倒れたため、結果としてこれが現役生活最後の安打となった。試合後には引退セレモニーが実施され、ゆかりのある人物からのビデオメッセージが流された[37]。また、この日の本塁打の着弾点となった『右翼席2列624番』は、「井口資仁選手 2017年9月24日 引退試合本塁打着地点」を示すプレートが設置されることが発表され[38]、2018年公式戦よりマリンスタジアムにおいての記念碑的な本塁打の着弾点を示す「レガシート」の一つとして制定、設置された[39]。また、NPBのみならずMLBにおいても、9月28日の古巣ホワイトソックスのホーム最終戦で、引退セレモニーとして本人による始球式が行われた(日付は現地時間)。背番号は当時と同じ「15」だった[40]

現役引退後 編集

ロッテ監督時代 編集

2017年10月12日、2018年シーズンからロッテの一軍監督を務めることが球団から発表された。メジャーリーグ経験の日本人選手はコーチや二軍監督もあるが一軍監督になるのは初めてとなる[41][42]。井口は球団のオフィシャルサイトで「これから始まる新たな挑戦に今はとてもワクワクしています。マリーンズというチームの良さをどのように出せばいいか。どう変えていくべきか。もうすでに色々なことが頭の中を駆け巡っています。強く、そしてファンの皆様に愛される魅力的なチームを作り上げたいと考えていますので応援の程、宜しくお願いします。」とコメントした[43]。同14日に就任会見が行われ、監督としての背番号は現役時代と同じ「6」を使用することとなった。ヘッド兼内野守備走塁コーチに鳥越裕介、戦略兼バッテリーコーチに的場直樹、バッテリーコーチに清水将海、二軍監督に今岡真訪を招聘した[44]

2018年は、先発の涌井秀章石川歩に加え、新加入のマイク・ボルシンガーが外国人投手最多タイとなる11連勝[45]をするなど機能。交流戦を11勝7敗の3位で終え、前半戦もリーグ5位ながら40勝38敗2分と貯金を作った。 しかし後半戦に入ると、リードオフマンの荻野貴司、石川、ボルシンガーが離脱、主力の穴を埋められないまま借金が嵩んだ[46]。9月27日にBクラスが確定[47]し、シーズンの成績としてはパ全5球団に負け越し、順位は5位に終わった[48]。ただ、中村奨吾が「3番・二塁手」に定着しゴールデングラブ賞を獲得、井上晴哉が「4番・一塁手」に定着し24本塁打、ルーキーの藤岡裕大が遊撃手に定着し規定打席に到達。チーム盗塁数が78→124と飛躍的に向上するなど成果も見られた[46]

2019年は、シーズン終盤まで楽天とCS進出を争っていたが、9月24日の埼玉西武ライオンズ戦に敗れ、西武の胴上げを目の前で許した[49]上、シーズンのBクラスが確定した[50]。ソフトバンクに17勝8敗と大きく勝ち越し、CSを争った楽天、日本ハムに勝ち越したが、最下位オリックスに9勝15敗1分、連覇した西武には8勝16敗1分で大きく負け越し。順位は4位で2年連続Bクラスだった。9月9日のソフトバンク戦では現役通して初の退場処分となった[51]

2020年は、開幕からオリックス相手に同一カード6連勝するなど開幕ダッシュに成功。8月21日にはソフトバンクを下しパ・リーグ単独首位に立つなど、ソフトバンクとの熾烈な首位争いをしたが、チーム内に新型コロナウイルス感染者がいたことが発覚し一部主力メンバーが離脱。その影響もあり10月に失速して首位と13ゲーム差の2位だった。4年ぶりのAクラス、13年ぶりの2位と躍進したが、ソフトバンクとのクライマックスシリーズではエラーから流れを掴まれ2連敗を喫して敗退。オリックスにはパ・リーグ初の6連戦6連勝をするなど勝ち越したが、西武、楽天には負け越した。

2021年は、開幕ダッシュに失敗したが、4・5月には復調して西武・オリックスとAクラス争いを繰り広げた。6月は交流戦で苦戦して負け越したが、7月に入ると復調し、前半戦は3位で終えた。後半戦は好調で、9月5日にはオリックスを追い抜いて首位に浮上したが最終的に2.5ゲーム差で2年連続2位となった。クライマックスシリーズは3位の楽天に1勝1分でファイナルステージ進出を決めたが、オリックスの前に2敗1分で敗退。11月16日に、2022年も監督を続投することが発表された[52]

2022年、ルーキーの松川虎生を高卒新人捕手としては史上3人目となる開幕スタメンに抜擢[53]し、4月10日のオリックス戦には佐々木朗希とバッテリーを組ませたことで、 「最年少(合計年齢)のピッチャーとキャッチャーによる完全試合」のギネス記録達成に繋がった[54]。 7月21日の埼玉西武戦で、監督通算300勝を達成[55]。しかし9月27日にチーム3年ぶりのBクラスが確定した[56]

10月2日、同年シーズン限りで辞任することを発表した。辞任に関しては、球団側からコーチ陣の刷新を求められたことが判断に繋がり、コーチや選手など、球団関係者のほとんども当日まで知らなかった[57]。最終戦となったソフトバンク戦(ZOZOマリン)後に行われたセレモニーで、「3年ぶりのBクラスとなったのは、全て私の責任です。今季退任して次の指揮官にバトンを託したい」と表明した[58]

監督退任後 編集

2023年からはNHK野球解説者サンケイスポーツ野球評論家として活動する。

選手としての特徴 編集

 
井口の走塁(2008年)

打撃 編集

ダイエー時代の監督である王貞治によると右方向への長打が特徴である[59]メジャーリーグではクリーンアップへの繋ぎを求められる2番での出場が多かった。ホワイトソックス時代はチームの方針からほぼ毎打席1ストライクを捨てながらも20本近い本塁打を放ち、A.J.ピアジンスキーから「打順が変われば、25本塁打まで打てる力がある」と言われ[60]、他チームのスカウトマンたちからも「2番ではなく、6番を打たせれば、30本塁打まで打てる力がある」と長打力が高く評価されていた[61]。ロッテ移籍当初は4番や2番で出場したが、後に3番に定着した。2010年には12チームトップのIsoD.118[62]を記録するなど、ロッテ移籍後は選球眼に磨きがかかり、また、同年は外角打率.313で12本塁打を放つなど、外角に強さを発揮した[62]

走塁・守備 編集

一塁到達4.3秒だが[63]、ダイエー時代は通算盗塁成功率約78%を記録し、2度の盗塁王を獲得している。メジャーリーグ移籍以降は盗塁数が減少した。

2000年までは遊撃手を務めていたが、2000年秋のキャンプから二塁手のコンバートに取り組んだ。一塁への送球距離が短くなったことで、無理に前進せずにボールを引き付けて捕球するケースが増え、打席でも「前に突っ込まなくなった」という[64]。二塁手としては3度ゴールデングラブ賞に輝いた。

守備では深めの位置で守ることが多く、肩の強さは二塁手としてはメジャーでも強肩の部類に入ると評された[63]ジミー・ロリンズは井口と初めて二遊間を組んだ際、「あの日は練習時間を間違えて球場入りしてしまったんだ。練習や打ち合わせなしで本番に臨んだ。でも、初回から彼のプレーを見て、『本物だ。それに僕と感覚が似ている。僕と同じで基本の枠を越えてプレー出来る選手だな』と実感した。素晴らしいね」と語った[65]。2006年には『ベースボール・アメリカ』誌で監督投票による「最も守備に定評がある内野手」の2位に選ばれるなど、グラブ捌きにも定評があったが[66]、守備範囲は広くなく[63]、MLB通算UZRは-4.3、DRSは-5を記録するなど、各種守備指標で平均を下回り[67]、ロッテ移籍後も得点換算などで平均を大きく下回った[68]

2013年は一塁手として99試合に出場し、規定試合数に到達したが[69]、UZRでは400イニング以上出場した一塁手としてはリーグワースト2位となる-5.2と平均を下回っている[70]。2015年にも一塁手としてリーグワーストのUZRを記録した[71]

監督として 編集

就任会見では、「走れる選手が非常に多いと思っていますので、もっともっと足を使った野球をやっていきたい。足に関しては好不調というのはないので、もう少し機動力を使った野球を増やせていけば、持ち味が発揮できるのではないかと思います」と、本塁打の出にくいZOZOマリンスタジアムの特性を考慮し、機動力の向上を促進した。就任した2018年はリーグ2位のチーム盗塁数124、ホームランラグーンを設置した2019年はリーグ4位の75盗塁と減少したが、2020年はリーグ3位の87盗塁、2021年(107盗塁)と2022年(132盗塁)は2年連続でチーム盗塁数が100を超え、リーグトップとなり、2021年は荻野貴司和田康士朗、2022年は髙部瑛斗が盗塁王に輝いた。足の遅い選手や、ファームの選手に対しても、積極的な走塁意識を浸透させた[72]。また、「ヒットと四球は同じ」という考えのもと、四球を獲得する意識を打者に浸透させ、2020年のロッテはチーム打率がリーグ最下位(.235)ながらリーグトップの491四球を記録し、チーム出塁率はリーグ3位(.329)だった[73]

また、選手起用においても若手の抜擢が目立った。次世代の和製大砲育成のため2020年は当時21歳の安田尚憲を86試合連続で4番打者として起用[74]、翌年には球団史上最年少となる開幕4番スタメンを与えた[75]

人物 編集

愛称は「イグ」、「グッチ[76]

現役時代に使用していたバッティンググローブはアシックス社製の「隈取」が甲に描かれたWAJIKARAシリーズ[77]

西武時代の松坂大輔との対戦では通算で打率.365(85打数、31安打、3本塁打、9打点)を残して得意としていたことから、「松坂キラー」と呼ばれた[5]

ホワイトソックス時代には本拠地のUSセルラー・フィールドで井口が打席に入る時や好プレーをした時になると、ブーイングに似た「GUU-! GUU-!」という唸り声をホームの観客が発した。これは「グーイング(guing[要出典])」と呼ばれる井口への応援である。現地では「イグチ(井口)」の「グ」にアクセントが置かれた特徴的な発音で呼ばれることが多く、これに由来する[5]

ロッテでは、“背中でアドバイスをする”その姿勢から“お父さん”と評されていた(角中勝也談)[78][79]

週刊文春(2018年12月20日号)によると1997年オフに5歳上の女性と入籍したが2015年に離婚、2018年10月に18歳下の女性と再婚したことが報じられた[80]

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1997 ダイエー 76 252 217 31 44 6 3 8 80 23 3 3 2 1 24 0 8 67 4 .203 .304 .369 .673
1998 135 476 421 58 93 18 4 21 182 66 12 6 15 4 28 1 8 121 6 .221 .280 .432 .712
1999 116 424 370 38 83 15 1 14 142 47 14 7 4 3 38 1 9 113 13 .224 .310 .384 .694
2000 54 185 162 21 40 9 2 7 74 23 5 2 5 1 15 0 2 29 5 .247 .317 .457 .774
2001 140 636 552 104 144 26 1 30 262 97 44 9 9 2 61 0 12 117 14 .261 .346 .475 .821
2002 114 472 428 64 111 14 1 18 181 53 21 7 5 2 27 0 10 84 8 .259 .317 .423 .740
2003 135 617 515 112 175 37 1 27 295 109 42 6 1 6 81 2 14 81 10 .340 .438 .573 1.011
2004 124 574 510 96 170 34 2 24 280 89 18 5 0 8 47 2 9 90 14 .333 .394 .549 .943
2005 CWS 135 581 511 74 142 25 6 15 224 71 15 5 11 6 47 0 6 114 16 .278 .342 .438 .780
2006 138 627 555 97 156 24 0 18 234 67 11 5 8 2 59 0 3 110 7 .281 .352 .422 .774
2007 90 377 327 45 82 17 4 6 125 31 8 1 1 3 44 1 2 65 5 .251 .340 .382 .722
PHI 45 156 138 22 42 10 0 3 61 12 6 1 1 3 13 0 1 23 1 .304 .361 .442 .803
'07計 135 533 465 67 124 27 4 9 186 43 14 2 2 6 57 1 3 88 6 .267 .347 .400 .747
2008 SD 81 330 303 29 70 14 1 2 92 24 8 1 1 0 26 0 0 75 11 .231 .292 .304 .596
PHI 4 7 7 0 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .286 .286 .429 .715
'08計 85 337 310 29 72 15 1 2 95 24 8 1 1 0 26 0 0 75 11 .232 .292 .306 .598
2009 ロッテ 123 530 448 71 126 24 3 19 213 65 4 4 0 1 68 2 13 101 11 .281 .391 .475 .866
2010 143 650 531 88 156 44 1 17 253 103 2 1 0 7 98 1 14 114 13 .294 .412 .476 .888
2011 140 597 509 52 135 23 3 9 191 73 1 1 0 7 72 4 9 96 11 .265 .362 .375 .737
2012 140 578 505 58 129 30 1 11 194 60 3 1 0 4 53 3 16 99 11 .255 .343 .384 .727
2013 135 566 485 68 144 31 2 23 248 83 4 3 0 4 67 2 10 81 13 .297 .390 .511 .902
2014 109 408 357 35 85 24 0 10 139 49 1 0 0 3 40 3 8 74 7 .238 .326 .389 .715
2015 87 250 227 21 56 17 1 6 93 28 1 0 0 0 21 0 2 65 4 .247 .316 .410 .726
2016 79 176 152 13 39 8 0 5 62 34 1 0 0 3 19 0 2 50 1 .257 .341 .408 .749
2017 65 144 123 9 30 7 0 2 43 15 0 0 0 2 19 1 0 27 4 .244 .340 .350 .690
NPB:17年 1915 7535 6512 939 1760 367 26 251 2932 1017 176 55 41 58 778 22 146 1409 149 .270 .358 .450 .808
MLB:4年 493 2078 1841 267 494 91 11 44 739 205 48 13 22 14 189 1 12 387 40 .268 .338 .401 .739
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別打撃成績所属リーグ内順位 編集























1997 23 NPB パ・リーグ - - - - - - -
1998 24 - - - 5位 - - -
1999 25 - - - - - - 6位
2000 26 - - - - - - -
2001 27 - - - - - 7位 1位
2002 28 - - - - - - 3位
2003 29 4位 4位 4位 - - 5位 1位
2004 30 4位 3位 4位 - - 8位 4位
2005 31 MLB ア・リーグ - - - 7位 - - -
2006 32 - - - - - - -
2007 33 - - - - - - -
2007 33 ナ・リーグ - - - - - - -
2008 34 - - - - - - -
2009 35 NPB パ・リーグ - - - - - - -
2010 36 - - 1位 - - 2位 -
2011 37 - - 10位 - - 8位 -
2012 38 - - 2位 - 7位 8位 -
2013 39 - - 4位 - 7位 9位 -
2014 40 - - - - - - -
2015 41 - - - - - - -
2016 42 - - - - - - -
2017 43 - - - - - - -
  • -は10位未満(打率は規定打席未到達の場合も-と表記)

MLBポストシーズン打撃成績 編集

















































O
P
S
2005 CWS 12 55 47 7 9 1 0 1 13 5 0 1 3 0 2 0 3 12 1 .191 .269 .277 .546
2007 PHI 3 3 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0 0 0 .000 .667 .000 .667
出場:2回 15 58 48 7 9 1 0 1 13 5 0 1 3 0 4 0 3 12 1 .188 .291 .271 .562

年度別守備成績 編集



一塁(1B) 二塁(2B) 遊撃(SS)




































1997 ダイエー - - 69 85 187 3 27 .989
1998 - - 134 193 382 10 75 .983
1999 - - 110 155 304 15 57 .968
2000 - - 53 69 120 8 20 .959
2001 - 140 330 449 5 93 .994 -
2002 - 114 219 350 6 70 .990 -
2003 - 133 293 406 10 95 .986 -
2004 - 123 251 378 6 79 .991 -
2005 CWS - 133 234 375 14 84 .978 -
2006 - 136 269 371 8 76 .988 -
2007 - 90 188 247 6 66 .986 -
PHI - 31 72 90 0 30 1.000 -
'07計 - 121 260 337 6 96 .990 -
2008 SD - 77 142 204 1 54 .997 -
PHI - 1 1 2 0 0 1.000 -
'08計 - 78 143 206 1 54 .997 -
2009 ロッテ - 102 268 311 7 54 .988 -
2010 - 143 306 368 7 84 .990 -
2011 - 140 266 410 7 63 .990 -
2012 - 128 269 359 10 64 .984 -
2013 99 764 53 5 61 .994 15 22 36 1 3 .983 -
2014 80 561 54 4 40 .994 - -
2015 53 327 18 6 41 .983 - -
2016 43 266 17 3 15 .990 - -
NPB:16年 275 1918 142 18 157 .991 1037 2224 3067 59 605 .989 366 502 993 36 179 .976
MLB:4年 - 468 906 1289 29 310 .987 -

タイトル 編集

NPB

表彰 編集

NPB
MLB
その他

記録 編集

NPB 編集

初記録
節目の記録
その他の記録
  • 30本塁打40盗塁:2001年 ※張本勲(1963年)、秋山幸二(1990年)に次いで史上3人目
  • 1試合4二塁打:2003年7月26日 ※プロ野球タイ記録、史上9人目[15]
  • 5試合連続猛打賞:2003年6月3日 - 6月8日 ※パ・リーグ記録、プロ野球タイ記録、西沢道夫(1954年)に次いで史上2人目[14]
  • 全打順本塁打:2009年4月7日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(東京ドーム)、4番で先発出場、2回表に多田野数人から左越ソロを放ち達成(NPB通算150号) ※史上7人目[86]
  • オールスターゲーム出場:9回(2001年 - 2004年、2009年 - 2013年)

MLB 編集

初記録
その他の記録
  • 1試合7打点:2006年6月25日 ※日本人選手最多タイ記録[注釈 10]

NPB/MLB通算 編集

節目の記録
通算記録[注釈 11]

背番号 編集

  • 7(1997年 - 2004年)
  • 15(2005年 - 2007年途中)
  • 12(2007年途中 - 2008年途中)
  • 10(2008年途中 - 同年途中)
  • 9(2008年途中 - 同年終了)
  • 6(2009年 - 2022年)

国際大会出場歴 編集

年度別監督成績 編集

レギュラーシーズン



























2018 ロッテ 5位 143 59 81 3 .421 28.5 78 .247 4.04 44歳
2019 4位 143 69 70 4 .496 9.5 158 .249 3.86 45歳
2020 2位 120 60 57 3 .513 14.0 90 .235 3.81 46歳
2021 2位 143 67 57 19 .540 2.5 126 .239 3.67 47歳
2022 5位 143 69 73 1 .486 7.5 97 .231 3.39 48歳
通算:5年 692 324 338 30 .489 Aクラス2回、Bクラス3回
  • 2021年度シーズン終了時
ポストシーズン










2020 ロッテ パ・リーグクライマックスシリーズ 福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ1位) 0勝3敗=敗退
(※1) (※2)
2021 パ・リーグクライマックスシリーズ
ファーストステージ
東北楽天ゴールデンイーグルス(パ・リーグ3位) 1勝0敗1分=ファイナルステージ進出
パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ
オリックス・バファローズ(パ・リーグ1位) 0勝3敗1分=敗退
(※1)
  • 勝敗の太字は勝利したシリーズ
※1 ディスアドバンテージの1敗を含む。
※2 2020年は新型コロナウイルスの影響によりファーストステージを実施せず、レギュラーシーズン1位チームと2位チームによる1ステージのみとし、当初の日程を変更したため試合数も4戦3勝先取制に規模を縮小して開催。

関連情報 編集

出演 編集

テレビ番組 編集

CM 編集

著書 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 福岡ダイエーホークス時代は176cm[1][2]
  2. ^ 福岡ダイエーホークス時代は84kg[1][2]
  3. ^ 従来は1966年秋に日大正垣泰祐が記録した6本。なお、2001年秋に日大村田修一が8本を記録し井口と並び1位タイとなる。
  4. ^ 従来の本塁打記録は、1968年に亜大大橋穣が記録した20本。井口が24本と更新した後、2002年に日大村田修一も20本を放ち大橋と並び2位タイとなる。
  5. ^ 4月21日の対大阪近鉄バファローズ戦で延長10回二死一、三塁の打席で香田勲男からサヨナラ安打[9]、9月8日の対西武ライオンズ戦で9回一死満塁の打席で西崎幸広からサヨナラ満塁本塁打[10]、9月17日の対千葉ロッテマリーンズ戦で9回一死二塁の打席で礒恒之からサヨナラ二塁打[11]の計3度サヨナラ打を記録。
  6. ^ 千葉移転後では最多となった。また、ロッテで日本人が100打点をマークするのは1986年の落合(116打点)以来24年ぶり。
  7. ^ これ以降、ロッテで100打点達成者は出ていない。
  8. ^ 中日ドラゴンズ岩瀬仁紀も同い年およびセ・リーグ最年長選手で、その岩瀬と共に2年続けて読売ジャイアンツの監督の高橋由伸より年上(1学年上)という、現職監督の年齢を上回る選手となった。また、横浜DeNAベイスターズの監督のアレックス・ラミレスとは同い年でこちらも選手と監督が同い年という珍しいケースとなった。
  9. ^ 通称「新人ベストナイン」。選出対象となる新人扱い選手を両リーグ統一した中で、各守備位置ごとに各球団監督の投票により選出される(例えばシルバースラッガー賞のように各リーグごとに選出されるのではない)。
  10. ^ 後に松井秀喜も記録(2009年8月21日)。
  11. ^ 順位は2023年終了時点
  12. ^ イチロー福留孝介松井稼頭央松井秀喜青木宣親及びNPB歴代上位11選手に次ぐ
  13. ^ イチロー松井秀喜松井稼頭央福留孝介青木宣親及びNPB歴代上位11選手に次ぐ
  14. ^ イチロー松井稼頭央松井秀喜青木宣親福留孝介及びNPB歴代上位12選手に次ぐ
  15. ^ イチロー松井稼頭央福留孝介松井秀喜立浪和義に次ぐ
  16. ^ 松井秀喜イチロー福留孝介松井稼頭央及びNPB歴代上位15選手に次ぐ
  17. ^ 松井秀喜福留孝介イチロー及びNPB歴代上位16選手に次ぐ
  18. ^ 青木宣親及びNPB歴代上位3選手に次ぐ

出典 編集

  1. ^ a b 『プロ野球選手名鑑2003』ベースボール・マガジン社、2003年、251頁。ISBN 4-583-61214-1 
  2. ^ a b 『プロ野球選手名鑑2004』ベースボール・マガジン社、2004年、210頁。ISBN 4-583-61259-1 
  3. ^ 千葉ロッテマリーンズ 井口 資仁 日本プロ野球機構オフィシャルサイト 2013年12月5日閲覧。
  4. ^ ロッテ井口監督「実戦で取り組んでいきたい」 - 日刊スポーツ 2017年11月3日
  5. ^ a b c d e f 井口資仁『二塁手論 現代野球で最も複雑で難しいポジション』幻冬舎、2010年。ISBN 978-4-344-98175-1 
  6. ^ 朝日新聞、1996年11月14日付朝刊 (28面)
  7. ^ 朝日新聞、1996年12月7日付朝刊 (29面)
  8. ^ ロッテ井口のデビュー戦で先発だったソフトB工藤監督「もっと長く出来ると」”. Full-Count (2017年6月20日). 2022年7月7日閲覧。
  9. ^ 「井口サヨナラ打 ダイエー4連勝」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)4月22日付朝刊、20面(スポーツ面)。
  10. ^ a b 「井口サヨナラ満塁弾 秋山死球 松坂降板…さらにドラマ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)9月9日付朝刊、24面(スポーツ面)。
  11. ^ 「タカ執念サヨナラ 9回同点、再び突き放す」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)9月18日付朝刊、22面(スポーツ面)。
  12. ^ 「悲願の頂点 タカ歓喜 地元福岡で祝砲3発 井口決めた!Vアーチ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)9月26日付朝刊、21面(スポーツ面)。
  13. ^ プロ野球デキゴトロジー/8月15日井口のサヨナラ弾でダイエーが首位に!【2001年8月15日】 週刊ベースボール
  14. ^ a b 「井口5戦連続猛打賞 プロタイ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2003年(平成15年)6月9日付夕刊、9面。
  15. ^ a b 「ダイエー・井口がプロ野球タイの1試合4二塁打」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2003年(平成15年)7月27日付朝刊、16面(スポーツ面)。
  16. ^ 『ベースボールマガジン 2004年プロ野球総決算号「激動」』ベースボールマガジン社出版 発行日2005年1月1日、41頁、雑誌07915-1。
  17. ^ 『ベースボールマガジン 2004年プロ野球総決算号「激動」』ベースボールマガジン社出版 発行日2005年1月1日、98-111頁、雑誌07915-1。
  18. ^ a b c d Tadahito Iguchi 2005 Batting Splits. Baseball-Reference.com(英語). 2013年6月18日閲覧
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  20. ^ 「王監督との野球楽しみ」 大リーガー井口選手が講演”. 47NEWS. 2014年8月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月14日閲覧。
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  22. ^ a b c d Tadahito Iguchi 2006 Batting Splits. Baseball-Reference.com(英語). 2013年6月18日閲覧
  23. ^ Tadahito Iguchi. Baseball-Reference.com(英語). 2013年6月18日閲覧
  24. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2010』白夜書房、2010年、P.131頁。ISBN 978-4-86191-595-6 
  25. ^ “井口月間MVPに「この調子」”. 日刊スポーツ. (2013年6月5日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130605-1138316.html 2013年7月10日閲覧。 
  26. ^ 井口 日米通算2000本安打 マー君から本塁打で決めた! スポーツニッポン2013年7月26日配信
  27. ^ a b 選手名鑑 千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト 2013年12月5日閲覧。[リンク切れ]
  28. ^ 2013年度 千葉ロッテマリーンズ 個人打撃成績(クライマックスシリーズ <第1ステージ> ) 2013年11月8日閲覧。
  29. ^ 2013年度 千葉ロッテマリーンズ 個人打撃成績(クライマックスシリーズ <ファイナルステージ> ) 2013年11月8日閲覧。
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関連項目 編集

外部リンク 編集