人民の友』 (L'Ami du peuple)は、フランス革命期にジャン=ポール・マラーによって発行された新聞。歴史家のジェレミー・D・ポプキンによれば[1]、「革命の最も有名で過激な新聞」である「人民の友」は、マラーが人民の敵であると信じていた人々に対し、声を大にして下層階級の権利を唱導するものであり、そこで彼は、いささかの躊躇も見せることなく記事のなかで論述を行っていた。これらの記事はしばしば暴力的で反抗的な行動を引き起こしたため、危険なものとみなされていた。

マラーの血で染められた「人民の友」の手稿

創刊 編集

1789年にカルム・デショー地区の選挙人として、マラーは選挙人集会において、現在起こっている政治的な出来事について有権者に知らせるための新聞を発刊するよう呼びかけた。ほかの選挙人たちが彼の呼びかけに応えなかったため、マラーは最初に「パリ市民のための広報」(Le Publiciste parisien) と名づけられた新聞の執筆に専念するために選挙人を辞任した。その創刊号は1789年9月12日に発行され、何号か発行された後にその紙名は「人民の友」に変更された[2]

初期の苦闘 編集

この新聞は八折り判のサイズで印刷されていた。通常は8ページの分量であるが[3]、時には12ページまたは16ページに拡大された[4]。通常、マラーは人民の友を毎日発行していたが、逮捕を逃れるためにマラーが潜伏した事によって新聞の印刷を行えなかったことが数回あったため、その発行期間にはいくつかの空白がある。ジャック・ネッケルジャン=シルヴァン・バイイミラボー伯爵、パリの自治市会ラファイエット侯爵国民議会立法議会国民公会、亡命貴族、ルイ16世といった人々に対する彼の絶え間ない攻撃は、彼に対する市民権の剥奪と告発、さらにこの新聞の発行停止を求める動きを招いた。彼の印刷機は破壊され、印刷済みの人民の友は少なくとも2回押収された[5]。特に物議を醸した号- その中で彼はラファイエットの心臓をえぐり出し、国王を火あぶりにし、議員たちをその議席に串刺しにせよという脅迫的な言辞を用いていた - を印刷した印刷業者は逮捕、投獄され、その印刷に使用された原版は破壊された[6]

新聞発行のための独立した収入源を持たなかったマラーは、人民の友を発行するために自らの貯蓄の大部分を費やした。1792年の初め、2ヶ月間滞在していたイギリスから帰国した後、彼には新聞の発行を続ける経済的余裕がなかったが、新しく内縁の妻となったシモーヌ・エヴラールの財政的支援によって彼は発行を続けることができた[7]。1792年8月10日に王権が停止した後、パリ自治市会の警察監視委員会はマラーに国王の印刷機4台を与え、マラーのための新たな印刷所がコルドリエ修道院英語版の地下に設けられた[8]

国民公会時代のマラー 編集

1792年9月9日、マラーは国民公会の議員に選出された。9月25日、彼は「フランス共和国新聞」(Journal de la République française) という新しい新聞を創刊したが[9]、翌年4月にジロンド派は国民公会の議員がジャーナリストを兼職することを違法とする法律を制定した(後に廃止された)。これに対して、マラーは新聞の名前を再び変更した。新しい紙名は「フランス革命の広報者」(Publiciste de la Révolution française)といい、自身がジャーナリストではなく広報者であることを宣言するものであった。旧「人民の友」はマラーの死までこの名前で発行され続けた[10]

マラーは、ジロンド派を完全に打倒した後、1793年6月3日に国民公会の議員を辞職した。彼の持病だった皮膚病は今では肺の疾患を伴うようになり、彼は医療用の浴槽で多くの時間を過ごした。この時期の彼の新聞はほとんどが多くの特派員から寄せられた手紙で構成されている[11]。7月13日、マラーはシャルロット・コルデーによって殺害された。その翌日、彼の新聞の最終号が発行された[12]

衝撃と影響 編集

マラーの人民の友は総数約700号に達し、彼が国民公会の選挙に出馬した際に始めた新聞は、他の多くのパンフレットと合わせて約250号を数えた。彼の論説の人気は、彼の見解に共感している人、または虚偽の表現を彼に帰そうとする人によってマラーの潜伏中、そして彼の死後に多くの偽造品を生み出した[13][14]。彼の扇動的なジャーナリズムは1789年10月のヴェルサイユ宮殿で重要な役割を果たしたとされ[15]1792年8月10日の君主制の停止[16]九月虐殺[17]など、革命的な群衆による他の行動を促した [18]

マラー自身の言葉 編集

マラーは1793年3月19日に発行された彼の新聞で、自身の政治的見解に沿って、彼の新聞の始まりと進化について述べている。

革命が勃発した時、長年にわたる科学アカデミーからの迫害に疲れ果てていた私は、私を圧迫する者を倒し、私の正当な立場を実現する機会を熱烈に受け入れた。私は自分の考えが既に完成された時点で革命に参加したので、それらが私にとっては当たり前のものとなっていた崇高な政治の原則に精通していた。憲法制定議会の偽りの愛国者たちをその実際の価値以上に信頼していた私は、彼らの狭量さと美徳の不足に驚かされることになった。彼らが光を必要としていると信じて、私は最も有名な議員、特にル・シャプリエ英語版 、ミラボー、バルナーヴに手紙を書き始めた。しかし、私が送った全ての手紙に対する彼らの頑固な沈黙は、彼らが光を必要としながらも、啓蒙されることは望んでいないことをすぐに私に証明した。私は自分の考えを出版する方法を採って人民の友を創刊した。

当初、私は社会の慣習を破ることなく真実を伝えたいと思っている人間の、厳しいが率直な調子でそれを始めた。私は2ヶ月間その調子を続けたが、私が期待したほどの効果を生み出さなかったことに失望し、また官職にある者たちの欺瞞と不誠実な国民の代表者たちの大胆さが着実に増していることに憤慨して、私は節度ある表現を放棄し、それまでの単純な非難を風刺と皮肉に代えることが必要であると感じるようになった。風刺の苦味は、彼らのプロジェクトにおける不正と数多くの誤った処置、そして公共の不幸によって増加していった。

アンシャン・レジームの支持者と自由の敵の頑迷さを強く確信して、私は何事も力によらない限り、彼らからなにも得ることはできないと感じた。彼らの繰り返される陰謀によって、彼らの挑戦に反抗して、私は、罪ある者である彼らを根絶やしにする以外に終わりがないことを理解した。最も執念深い敵とその同盟者である国家の代表者たちから罪のない者たちを保護すべき法律が、実際にはこれらの者たちを抑圧するためだけのものでしかないのを見た私は憤慨し、主権者である人々に対して、彼らは自分たちの代表者にもう何も期待が持てないのだから、彼ら自身の手で自らに正義を与える必要があると考えを改めたが、これは数度にわたって行われた[19]

脚注 編集

  1. ^ Darnton and Roche 1989, p. 162.
  2. ^ Gottschalk 1966, p. 49.
  3. ^ Gottschalk 1966, p. 49
  4. ^ Belfort Bax 1902, p. 105.
  5. ^ Gottschalk 1966, p. 62.
  6. ^ Gottschalk 1966, p. 78.
  7. ^ Gottschalk 1966, p. 92.
  8. ^ Gottschalk 1966, p. 97.
  9. ^ Gottschalk 1966, pp. 128-29.
  10. ^ Gottschalk 1966, pp. 152-53.
  11. ^ Gottschalk 1966, p. 166.
  12. ^ Gottschalk 1966, pp. 168-69.
  13. ^ Gottschalk 1966, pp. 179–80.
  14. ^ Belfort Bax 1901, p. 111.
  15. ^ Gottschalk 1966, pp. 58–59.
  16. ^ Gottschalk 1966, p. 96–97.
  17. ^ Gottschalk 1966, pp. 120–26.
  18. ^ Gottschalk 1966, p. 148.
  19. ^ Gottschalk 1966, p. 52.

参考文献 編集

  • Gottschalk, Louis R. (1927, reissued 1966). Jean-Paul Marat: A Study in Radicalism, Benjamin Bloom.
  • Darnton, Robert and Roche, Daniel, editors. (1989). Revolution in Print: the Press in France, 1775-1800, University of California Press.
  • Belfort Bax, Ernest (1901). Jean-Paul Marat, The People’s Friend, Grant Richards.

外部リンク 編集

関連項目 編集