伊号第百五十七潜水艦

日本の潜水艦

伊号第百五十七潜水艦(いごうだいひゃくごじゅうななせんすいかん)は、日本海軍潜水艦伊百五十六型潜水艦(海大III型b)の2番艦。竣工時の艦名は伊号第五十七潜水艦

終戦後の伊157。空母笠置後方4隻の潜水艦の手前から2番目、司令塔に「イ157」とある。
艦歴
計画 大正12年度艦艇補充計画
起工 1927年7月8日
進水 1928年10月1日
就役 1929年12月24日
除籍 1945年11月30日
その後 1946年4月1日 五島列島沖で爆破処分
性能諸元
排水量 基準:1,635トン 常備:1,800トン
水中:2,300トン
全長 101.00m
全幅 7.90m
吃水 4.90m
機関 ズルツァー[1]3号ディーゼル2基2軸
水上:6,800馬力
水中:1,800馬力
速力 水上:20.0kt
水中:8.0kt
航続距離 水上:10ktで10,000海里
水中:3ktで60海里
燃料 重油:230t
乗員 63名
兵装 40口径十一年式12cm単装砲1門
留式7.7mm機銃1挺
53cm魚雷発射管 艦首6門、艦尾2門
六年式魚雷16本
Kチューブ(水中聴音機)
備考 安全潜航深度:60m

艦歴 編集

  • 1927年(昭和2年)7月8日 - 呉海軍工廠で起工。
  • 1928年(昭和3年)10月1日 - 進水
  • 1929年(昭和4年)12月24日 - 竣工。第19潜水隊に編入[2]
  • 1930年(昭和5年)11月15日 - 1931年11月まで予備艦となる[2]
  • 1932年(昭和7年)6月1日 - 同年10月まで予備艦となる[2]
  • 1934年(昭和9年)10月22日 - 1935年11月まで予備艦となる[2]
  • 1938年(昭和13年)
    • 6月1日 - 艦型名を伊五十三型に改正[3]
    • 12月15日 - 1939年8月まで予備艦となる[2]
  • 1941年(昭和16年)12月1日 - 第4潜水戦隊第19潜水隊に属し、三亜を出航。マレー作戦に参戦[4]
  • 1942年(昭和17年)1月7日 - 南緯07度15分 東経116度23分 / 南緯7.250度 東経116.383度 / -7.250; 116.383バリ海で、バリクパパンからスラバヤへ向かっていた蘭タンカージラク(Djirak、3,077トン) を砲撃により撃沈[5]
    • 1月5日 - カムラン湾に帰着[4]
    • 2月7日 - 乗員に赤痢患者が発生し3月まで活動停止[4][5]
    • 3月6日 - セレベス島スターリング湾に到着[4]
    • 3月10日 - 第5潜水戦隊第19潜水隊に編入[4]
    • 3月20日 - 入港[4]
    • 5月20日 - 伊号第百五十七潜水艦に改名。
    • 5月26日 - ミッドウェー海戦に参加[4]
    • 6月30日 - 呉に入港[4]
    • 7月10日 - 第5潜水戦隊が解隊し、第19潜水隊が呉鎮守府部隊に編入。以後、練習艦となる[4]
  • 1943年(昭和18年)5月22日 - 北方に派遣となり呉を出航。26日、横須賀を出航[4]
    • 6月1日 - 幌筵島に到着。4日よりキスカ島に向けて補給物資輸送のため出航[2]
    • 6月16日 - 霧の中を航行中に座礁し、潤滑油12本、魚雷6本、電池113基、重油74トンを海中に投棄[2]
    • 6月17日 - 離礁し、20日、幌筵島に帰着[2]
    • 6月26日 - 呉に入港[4]
    • 12月1日 - 呉潜水戦隊第19潜水隊に編入[4]
  • 1944年(昭和19年)7月 - 呂49と共に13号電探を搭載し試験を行う。
  • 1945年(昭和20年)4月20日 - 第六艦隊第34潜水隊に編入[4]
    • 8月15日 - 第15潜水隊に編入され終戦を迎える[4]
  • 1946年(昭和21年)4月1日 - 五島列島沖で米軍により爆破処分[6]

撃沈総数1隻、撃沈トン数3,077トン。

歴代艦長 編集

※『艦長たちの軍艦史』426頁による。

艤装員長 編集

  • 橋本愛次 少佐:1929年5月15日[7] - 1929年7月26日[8]

艦長 編集

  • 橋本愛次 少佐:1929年7月26日[8] - 1930年6月20日[9]
  • 伊藤尉太郎 少佐:1930年6月20日[9] - 1931年11月14日
  • 斎藤栄章 少佐:1931年11月14日 - 1932年6月1日
  • (兼)中島千尋 少佐:1932年6月1日 - 1932年10月5日
  • 中岡信喜 少佐:1932年10月5日 - 1933年11月15日
  • 玉木留次郎 少佐:1933年11月15日 - 1935年5月10日
  • (兼)奥島章三郎 少佐:1935年5月10日[10] - 1935年7月3日[11]
  • 小林一 少佐:1935年7月3日 - 1935年11月15日
  • 高橋長十郎 少佐:1935年11月15日 - 1936年11月16日
  • (兼)山田隆 少佐:1936年11月16日 - 1936年12月1日
  • 岡本義助 中佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日
  • 清水太郎 少佐:1937年12月1日 - 1938年12月15日
  • 楢原省吾 中佐:1938年12月15日 - 1939年2月20日
  • 成沢千直 少佐:1939年2月20日[12] - 1939年3月20日[13]
  • (兼)畑中純彦 少佐:1939年3月20日[13] - 1939年9月1日[14]
  • 吉村巌 少佐:1939年9月1日 - 1941年10月31日[15]
  • 中島栄 少佐:1941年10月31日 -
  • 佐伯卓夫 少佐:1942年10月15日 -
  • 小比賀勝 少佐:1943年2月1日 -
  • (兼)栢原保親 大佐:1943年7月7日 - 1944年1月31日
  • 堀武雄 中佐:1944年1月31日 -
  • 中村省三 中佐:1944年2月25日 -
  • 荒木浅吉 少佐:1945年8月9日 -

脚注 編集

  1. ^ スイス・SULZER社。英語読みではスルザー。
  2. ^ a b c d e f g h 『艦長たちの軍艦史』426頁。
  3. ^ 昭和13年6月1日付、内令第421号。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集19巻』71頁。
  5. ^ a b 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』100頁。
  6. ^ 『日本海軍史』第7巻、355頁。
  7. ^ 『官報』第711号、昭和4年5月16日。
  8. ^ a b 『官報』第774号、昭和4年7月29日。
  9. ^ a b 『官報』第1042号、昭和5年6月21日。
  10. ^ 『官報』第2505号、昭和10年5月13日。
  11. ^ 『官報』第2550号、昭和10年7月4日。
  12. ^ 海軍辞令公報(部内限)第303号 昭和14年2月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075400 
  13. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第316号 昭和14年3月21日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075500 
  14. ^ 海軍辞令公報(部内限)第375号 昭和14年9月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076300 
  15. ^ 海軍辞令公報(部内限)第737号 昭和16年10月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082900 

参考文献 編集

  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集19巻』潜水艦伊号、光人社、1997年。
  • 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9