保科正益

日本の江戸時代後期~明治時代前期の大名・知藩事・子爵。上総飯野藩9代藩主保科正丕三男で、飯野藩10代藩主。若年寄・大坂定番及び加番・日光祭礼奉行等を歴任

保科 正益(ほしな まさあり)は、上総飯野藩の第10代(最後)の藩主。江戸幕府幕末若年寄

 
保科正益
時代 江戸時代後期
生誕 天保4年2月2日1833年3月22日
死没 明治21年(1888年1月22日[1]
改名 咸六郎(幼名)、正益
戒名 高岳院殿徳雲雅馨大居士
墓所 東京都港区青山墓地
官位 従五位下、弾正忠、子爵
幕府 江戸幕府 若年寄
上総飯野藩
氏族 保科氏
父母 父:保科正丕、母:民(重枝)
兄弟 松平照正益
正室:伊達宗紀の娘・節子
長男、楠田咸次郎正昭、横田某、娘(岩崎久弥室)、娘(佐野常羽室)、
娘(沢田鋓義室)
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経歴 編集

天保4年(1833年)2月2日、第9代藩主・保科正丕の三男として江戸で生まれる。はじめ病弱なために正丕は幕府に出生届を出さなかったが、長男と次男が相次いで早世したため、天保7年(1836年)に出生届を出している。このため、弘化4年(1847年)に世子となり、嘉永元年(1848年)に正丕が死去したため家督を継いだ。嘉永3年(1850年)12月、従五位下、弾正忠に叙任される。大坂加番や日光祭礼奉行など諸役を歴任し、嘉永6年(1853年)のペリー来航では浦賀の警備を務めた。

文久3年(1863年)、大坂定番に任じられる。慶応2年(1866年)5月には若年寄に任じられ、同年からの第2次長州征伐では石州口における幕府軍を指揮した。慶応3年(1867年)1月、江戸へ戻り、7月に若年寄を辞任する。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、新政府に恭順するためと、前将軍・徳川慶喜の助命を求めて入京しようとしたが、親戚に当たる会津藩主・松平容保が徹底抗戦の構えを取ったため、4月から連座によって京都北野で謹慎処分となった。これに対して正益は幕府側に与した家臣を処刑したため、6月19日に罪を許された。

明治2年(1869年)6月の版籍奉還で飯野藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免職された。1884年7月8日に子爵を叙爵した[2]。明治21年(1888年)1月22日に死去した。享年56。

家族 編集

父母

子女


姻族関係

長女・寧子の長女はエリザベス・サンダースホームの創立者・沢田美喜[11][12][13]。次男・咸次郎の次女は元三菱銀行頭取の田実渉に嫁ぎ[10][7]、蔦屋の養女(岩崎小弥太の庶子のため、正益とは血縁自体はない)は元三菱重工業社長の牧田與一郎に嫁いでいる。民族主義者牧田吉明はその四男である。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 蔦屋を当時経営していた沢田家は、戊辰戦争の戦後処理のため自刃を命じられた家老・萱野権兵衛の介錯を正益から命じられた家臣・沢田武司(武、武治とも)の一族で、建子の夫は武司の息子(底倉蔦屋と沢田武治
  2. ^ 楠田英世の長男・申八郎の婿養子となる。
  3. ^ 幼名は盛之助、嗣子となり[3][5][6][9][10]北白川宮能久親王の第3王女武子女王を娶り[3]貴族院議員となる。[3]

出典 編集

  1. ^ 『官報』1369号、1888年1月25日。
  2. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  3. ^ a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成 下巻』473頁。
  4. ^ 三菱財閥の3代目総帥
  5. ^ a b c 『人事興信録 第2版』甲207頁。
  6. ^ a b c 『人事興信録 第3版 皇室の部、皇族の部、い(ゐ)之部 - の之部』ほ6頁。
  7. ^ a b 『門閥』262-263頁、270頁。
  8. ^ 『閨閥』400頁。
  9. ^ 『人事興信録 第6版』く56頁。
  10. ^ a b 『平成新修旧華族家系大成 上巻』541頁。
  11. ^ 『門閥』 262-263頁、273頁。
  12. ^ 『黒い肌と白い心』333頁。
  13. ^ 『閨閥』403頁。

参考文献 編集

日本の爵位
先代
叙爵
子爵
飯野保科家初代
1884年 - 1888年
次代
保科正昭