全国指導者

ナチ党の幹部の階級の一つ

全国指導者(ぜんこくしどうしゃ、: Reichsleiterライヒスライター)とは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の最高指導部である全国指導部(Reichsleitung、ライヒスライトゥング)を形成するメンバーであり、またはその階級を指す。党の最高指導者 (Führer)であるアドルフ・ヒトラーを補佐し、原則的には職能別に権限を分掌していた。

1934年制定の全国指導者襟章
1939年制定の全国指導者腕章
全国指導者旗

概要 編集

全国指導者、すなわち全国指導部の概要が初めて公表されたのは1931年8月である[1]。全国指導者は、その担当分野において最高指導者ヒトラーから全権を委託されており、その職務遂行にあたってはヒトラーだけに責任を負うとされていた。

全国指導者は原則として担当分野についてのナチ党々内組織の長であった。このため、ゲッベルスの「宣伝全国指導者」を「ナチ党宣伝部長」、ヒムラーの「親衛隊全国指導者」を「親衛隊長官」などとするように、日本語では全国指導者のことを「○○部長」「○○長官」と意訳することがある。

初期の小規模なナチ党では全国指導者も党内の事務組織の分掌者という役割にとどまったが、ナチ党が拡大するにつれて全国指導者の権限も膨張していった。ヒトラー内閣の成立とナチ党の権力掌握によってナチ党とドイツ国家は一体化し、全国指導者は国家全体の指導者としての地位を占めることとなった。これにより、全国指導者の中には、政府において内閣の閣僚など重要な公職を兼任する者も多かった。さらに、ナチ党が国家を指導するというナチ体制下では、党の全国指導者の中には類似分野を担当する政府の大臣を上回る権勢を手にする者も存在した。

  • ヨーゼフ・ゲッベルスはナチ党の宣伝全国指導者であるとともに、政府の宣伝大臣であり、党と政府の宣伝政策を一手に握っていた。
  • リヒャルト・ヴァルター・ダレは農民全国指導者・農政全国指導者となり、政府の食糧大臣となったが、政策に失敗して影響力を失い、健康を害したこともあって大臣の座もヘルベルト・バッケに奪われた。ただし全国指導者としての地位はナチ党崩壊まで維持している。
  • アルフレート・ローゼンベルクは対外政策全国指導者であったが、官庁としての外務省、ナチ党の国外大管区英語版、そしてヨアヒム・フォン・リッベントロップの個人事務所などと外交分野の主導権を巡って争っていた。ローゼンベルクは外交政策の主導権を握ることは出来なかった。第二次世界大戦の後期にはローゼンベルクは東部占領地域大臣として入閣を果たしたが、その権限はヒムラーの親衛隊などに浸食されて限定的なものに留まり、ローゼンベルクの政治的影響力は大きなものではなかった。
  • ロベルト・ライハインリヒ・ヒムラーは、党組織に由来する権力を行使し、やがては国家全体におよぶ巨大な政治的影響力を持つにいたった。
  • ヴィルヘルム・フリックは全国指導者としては「国会議員団団長」であったが、これは特定の担当分野というよりも名誉職的な色彩が濃かった。フリックはナチ党員として最初に地方政府(テューリンゲン州)の大臣となり、ヒトラー内閣組閣時にはゲーリングとともに入閣するなど主要幹部の一人であったが、党内に影響力を及ぼせる組織を持っておらず、ナチ体制前期での彼の権力のほとんどは内務大臣としての権限に由来していた。しかしそれも親衛隊の治安権力伸張と、戦時体制によって影響力が低下していった。内務大臣退任後のフリックは、ほとんど影響力を喪失してしまうことになる。
  • 一方で、財政全国指導者のフランツ・クサーヴァー・シュヴァルツのように党内の事務担当としての職責に専念してほとんど政治的活動を行わず、党内や政府内の権力闘争からは意識的に距離を置いていたメンバーもいる。

一方で党内において特定の役職を割り当てられていないメンバーもいた。例えばヘルマン・ゲーリングの肩書はあくまで「総統後継者」であり、特定の担当分野を与えられておらず、全国指導者のメンバーに含まれないとする解説も多い。ただし、ゲーリングは党と国家のナンバー2と広く見做されており、政府、党、軍の多数の要職を兼務し、それらについては最高指導者ヒトラーから全権を委任されており、大きな政治的権限をふるっていたことから、事実上全国指導者の中に入るとも言える。

全国指導部メンバー以外の「全国指導者」 編集

ただし、「全国指導者」と日本語訳される党役職を持つ者すべてが全国指導部のメンバーであったわけではない。たとえば、「Reichsführer」という役職も日本語では「全国指導者」と訳されるが、この称号を持つ者の中で全国指導部のメンバーであったのは1934年以降の親衛隊全国指導者(ヒムラー)、青少年全国指導者、労働全国指導者だけである。こうした、全国指導部メンバー以外の「全国指導者」の事例としては下記のようなものがある。

全国指導者のリスト 編集

名前 画像 役職名 全国指導者として所管する党内組織 期間[3] その他の党役職・官職 備考
ヘルマン・ゲーリング[1]
 
総統後継者[4] 1930年
 | 
1945年
航空大臣
四カ年計画全権
国会議長
空軍総司令官
国家元帥など
1945年4月、後継者就任手続き[5]の行使を宣言してヒトラーの逆鱗に触れ、解任
ルドルフ・ヘス[1]
総統代理[6]、総統第二後継者
Stab des Stellvertreters des Führers)
総統代理幕僚部 1932年
 | 
1941年
退役陸軍予備役少尉
無任所大臣
親衛隊大将
NSDAP/AO英語版 総裁など
1941年5月に秘密裏に渡英したため、解任
マルティン・ボルマン[7]
 
総統代理幕僚長
(Stabsleiter des StdF)
(1933–41)
党官房長[8]
(Leiter der Parteikanzlei)
(1941–45)
総統代理幕僚部
党官房
1933年
 | 
1945年
無任所大臣待遇
親衛隊大将
総統秘書
国会議員
ヒトラーの政治的遺書でナチ党担当大臣に指名
フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ[7]
 
全国財政局長
(Reichsschatzmeister der NSDAP)
財政部 1925年
 | 
1945年
退役陸軍中尉
親衛隊上級大将
国会議員
グレゴール・シュトラッサー
全国宣伝指導者
(Reichspropagandaleiter)
(1926年~1929年)
全国組織指導者
(Reichsorganisationsleiter)
(1929年~1932年)
宣伝部
組織部
1926年
 | 
1932年
退役陸軍中尉
党北西ドイツ大管区活動協同体指導者
1932年に失脚、「長いナイフの夜事件」で暗殺
ロベルト・ライ[7]
 
全国組織指導者
(Reichsorganisationsleiter)
組織部 1932年
 | 
1945年
ドイツ労働戦線指導者
国会議員
フィリップ・ボウラー[7]
 
総統官房
(Chef der Kanzlei des Führers und Vorsitzender)
総統官房 1933年
 | 
1945年
退役陸軍少尉
親衛隊大将
全国経営指導者
T4作戦(「劣等分子」安楽死計画)責任者
国会議員
ヴァルター・ブーフ[7]
 
党最高裁判所ドイツ語版[9]
(Oberstes Parteigericht der NSDAP)
党最高裁判所 1928年
 | 
1945年
退役陸軍少佐
親衛隊大将
国会議員
ヴィルヘルム・グリム[7] 党第2最高裁判所長
(Der Stellvertretende Vorsitzender des Obersten Parteigerichts / Der Vorsitzende der 2.)
党第2最高裁判所 1932年
 | 
1939年
親衛隊中将
陸軍予備役大尉
国会議員
ヨーゼフ・ゲッベルス[7]
 
全国宣伝指導者
(Reichspropagandaleiter)
宣伝部 1929年
 | 
1945年
国民啓蒙・宣伝大臣
ベルリン大管区指導者
総力戦指導者
ヒトラーの政治的遺書で首相に指名
オットー・ディートリヒ[7]
 
全国報道局長
(Reichspressechef)
報道部 1931年
 | 
1945年
退役陸軍少尉
国民啓蒙・宣伝省首席次官
政府報道局長
親衛隊大将
国会議員
1945年3月に解任
マックス・アマン[7]
全国出版指導者
(Reichsleiter für die Presse)
出版部 1931年
 | 
1945年
エーア出版社英語版社長
親衛隊大将
国会議員
全国出版院ドイツ語版総裁
党機関紙指導者 (Der Leiter der Parteipresse der NSDAP)
ハンス・フランク[7]
 
全国司法指導者
(Der Leiter des Reichsrechtsamtes)
司法部 1933年
 | 
1945年
無任所大臣
ドイツ法律アカデミー総裁
ポーランド総督
陸軍予備役少尉
国会議員
アルフレート・ローゼンベルク[7]
 
対外政策局ドイツ語版 指導者
(Der Leiter des Außenpolitischen Amts der NSDAP)
対外政策局 1933年
 | 
1945年
東部占領地域大臣
国会議員
ヒトラー入獄中の1924年には一時指導者代理の地位にあった
リヒャルト・ヴァルター・ダレ[7]
 
全国農政指導者
(Der Leiter des Amtes für Agrarpolitik)
全国農民指導者
(Reichsbauernführer)
親衛隊大将
国会議員
農政部 1930年
 | 
1945年
食糧大臣 1933年に全国農政指導者を全国農民指導者に改称
カール・フィーラー[7]
 
全国書記指導者
(Schriftführer der NSDAP)
地方行政本部長
(Leiter des Hauptamts für Kommunalpolitik)
(1933年~1945年)
書記局
地方行政本部
1933年
 | 
1945年
ミュンヘン市長
退役陸軍少尉
親衛隊大将
国会議員
エルンスト・レーム[7]
 
突撃隊幕僚長
(Der Stabschef der SA)
突撃隊 1931年
 | 
1934年
退役陸軍大尉
無任所大臣
国会議員
「長いナイフの夜」事件によって殺害
ヴィクトール・ルッツェ[10]
 
突撃隊幕僚長 突撃隊 1934年
 | 
1943年
退役陸軍中尉
プロイセン州ハノーファー県(de)知事
国会議員
1943年に事故死
ヴィルヘルム・シェップマン[10]
 
突撃隊幕僚長 突撃隊 1943年
 | 
1945年
退役陸軍中尉
国会議員
ハインリヒ・ヒムラー[10]
 
親衛隊全国指導者
(Reichsführer des SS)
親衛隊 1934年[11]
 | 
1945年
全ドイツ警察長官
内務大臣
国会議員
1945年4月、西側との単独講和を模索してヒトラーの逆鱗に触れ、解任
バルドゥール・フォン・シーラッハ[10]
 
全国青少年指導者
(ヒトラー・ユーゲント指導者)
(Reichsjugendführer)
(1933年~1939年)
ヒトラー・ユーゲント 1928年
 | 
1939年
大ウィーン帝国大管区大管区指導者
陸軍予備役少尉
国会議員
1939年以降はユーゲント教育のためのナチ党全国指導者
アルトゥール・アクスマン[10]
 
全国青少年指導者
(ヒトラー・ユーゲント指導者)
ヒトラー・ユーゲント 1939年
 | 
1945年
陸軍予備役中尉
国会議員
コンスタンティン・ヒールル[7]
 
全国労働局長(Reichsarbeitsführer) 労働部 1936年
 | 
1945年
国家労働奉仕団総裁
名誉陸軍少将
国会議員
フランツ・フォン・エップ[7]
 
[12] 全国国防政策指導者
(Leiter des Wehrpolitischen Amtes)
全国植民政策指導者ドイツ語版
(Leiter des Kolonialpolitisches Amt der NSDAP)
国防政策部
植民政策局ドイツ語版
1932年
 | 
1945年
バイエルン州国家弁務官国家代理官
陸軍中将
突撃隊大将
国会議員
1945年4月にバイエルン自由行動ドイツ語版に参加したとして逮捕
ヴィルヘルム・フリック[7][12]
 
ナチ党国会議員団長
(Fraktionsführer)
国会議員団 1924年
 | 
1945年
内務大臣
ベーメン・メーレン保護領総督
国会議員

ギャラリー 編集

関連項目

脚注 編集

  1. ^ a b c 山口定 1976, pp. 82.
  2. ^ 木畑和子「第三帝国期の予防医学 : レオナルド・コンティを中心に (西節夫教授退職記念号)」『ヨーロッパ文化研究』第22巻、2003年3月、49-69頁、CRID 1050282812448866048 
  3. ^ その役職に就いた、または全国指導部に加入していた期間
  4. ^ ヒトラーによる後継者指名布告は1934年12月13日。ただし、正式な役職名ではない。
  5. ^ ヒトラーが行動の自由を失ったとされた場合には、ゲーリングが総統職を代行するというもの。
  6. ^ 副総統、指導者代理という訳もある。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 山口定 1976, pp. 83.
  8. ^ 官房長への就任は1941年5月。
  9. ^ 1934年以前はUSCHLA英語版
  10. ^ a b c d e 山口定 1976, pp. 84.
  11. ^ 親衛隊全国指導者就任は1929年。1934年に全国指導部メンバーに昇格。
  12. ^ a b 1933年6月2日のヒトラーの布告では、全国指導部のメンバーが挙げられているが、エップ、フリックの名前は挙げられていない。 (山口定 1976, pp. 84)

参考文献 編集