全日本ツーリングカー選手権 (1985年-1993年)

全日本ツーリングカー選手権(ぜんにほんツーリングカーせんしゅけん)は、自動車レースの1カテゴリー。市販車をベースとして改造を施したツーリングカーで争われた。

概要 編集

1985年昭和60年)から1993年平成5年)までは国際自動車連盟(FIA)の定めるグループA規定[1]により排気量別の3クラス制[2]で行われたが、1994年(平成6年)から1998年(平成10年)までは同じくFIAの定める排気量2L・4ドアセダンをベースとした新カテゴリーのクラス2規定により争われた。どちらも同じ競技名ではあるが、カテゴリーの混同を避けるため、新たな通称として1993年(平成5年)までをJTC(Japan Touringcar Championship)もしくはグループAと呼び、1994年(平成6年)以降からはJTCC(Japan Touring Car Championship)と区別して表記する。

歴史 編集

1985年(昭和60年) 編集

6月2日スポーツランドSUGOで開幕し、11月10日富士スピードウェイインターTEC)で閉幕するまで、全5戦で争われた。

開催初年度の主な参戦車両は、ヨーロッパツーリングカー選手権(ETC)で既に活躍していたトヨタAE86カローラレビン(Div.1)、日産からR30スカイライン(Div.3)、S12シルビア(Div.2)、外車ではBMWM635CSi(Div.3)、VWシロッコ(Div.2)、が参加した。

シーズン途中からはホンダAT型シビックSi(Div.1)が参戦。最終戦の国際格式レース、インターTECにはETC王者のボルボ240ターボが来日、圧倒的強さで1-2フィニッシュを達成した。また欧州で活躍していたMA64スープラ三菱スタリオン(共にDiv.3)も凱旋来日した。

初代シリーズチャンピオン(総合)は2勝したBMW635を駆る長坂尚樹が獲得した。この他カローラレビン1勝、シビック1勝、ボルボ1勝。

1986年(昭和61年) 編集

三菱ワークスのスタリオンが本格参戦。スカイライン、BMWとの三つ巴に。また、この年からカムシャフトのリフト量の変更が解禁された。

しかし灼熱の菅生ではカローラレビンが、豪雨の西仙台(現・仙台ハイランド)ではFFのAE82カローラFXが総合優勝する波乱も。Div.2にはレイトンハウスからメルセデス・ベンツ190E 2.3-16が参戦。Div.3を上回る速さを見せるも1度も完走できなかった。

シリーズチャンピオンはR30スカイラインを駆った鈴木亜久里が獲得した。スカイライン2勝、スタリオン1勝、AE86カローラレビン1勝、AE82カローラFX1勝、ボルボ1勝(インターTEC2連覇)。

1987年(昭和62年) 編集

トヨタ・チーム・トムス(TTT)がMA70スープラを投入し、いきなりデビューウィン(菅生)。日産もR31スカイラインのエボリューション・モデルGTS-Rを投入するなど、グループAでもワークス戦争が本格化してきた。こうしたワークスマシンを相手に、プライベートチームが持ちこんだフォードシエラRSコスワース(シーズン途中からエボリューションモデルのRS500に)が圧倒的速さを見せる。この他、Div.2にオートビューレックからBMWM3がデビュー。

インターTECはこの年世界選手権(WTC)がかけられ、遠来のエッゲンバーガー(1985年にボルボを走らせたチーム)のワークス・フォードシエラRS500が圧勝した。

シリーズチャンピオンはフォードシエラRS500を駆った長坂尚樹が2度目の獲得。シエラRSコスワース1勝、エボリューションモデルのシエラRS500が2勝、スタリオン2勝、スープラ1勝。

1988年(昭和63年) 編集

この年から、排気量2.5L超のクラスがクラス1、2.5L以下がクラス2、1.6L以下がクラス3と改称された。シリーズ開始当初は、バラエティに富んだ参加車両だったが、この頃になるとだいぶ淘汰が進むようになった。

クラス1は、スープラ、スカイライン、フォードシエラ、スタリオンの4車種のみに。このうちスタリオンは、他メーカーがエボリューションモデルを投入してきたこともあり、苦戦を強いられるようになってきた。またスープラは、FIAのターボ係数がこの年から1.4から1.7に変更されたことから、(3.0L×1.7で)5.2L扱いになり、大幅に最低重量が上げられこちらも苦戦。トヨタはスープラのエボリューションモデル「ターボA」を8月に500台限定発売。公認取得後、最終戦インターTECに投入、2位に入賞した。シーズン序盤、鈴木亜久里/アンデルス・オロフソンのドライブで開幕2連勝を果たしたニスモワークスのR31スカイラインだったが、以降4戦は地力に勝るシエラに勝つことができず、シリーズチャンピオンはフォードシエラRS500を駆った横島久が獲得した。

前年までエアポケット状態で、様々なマシンが参戦したクラス2だが、BMW M3の登場で一転ワンメイク状態に。クラス3ではベース車両のモデルチェンジに合わせ、AE92カローラ、EF3シビックが登場。カローラvsシビックの対決は93年のグループA終焉まで続くこととなる。

1989年(昭和64年/平成元年) 編集

この年から星野一義がシリーズフル参戦。一方三菱は撤退し、クラス1はトヨタ、日産、フォードの3メーカーに。星野のドライブするカルソニックスカイラインは全6戦中4回ポールポジションを獲得と、抜群の速さを見せたが、決勝ではトラブルに見舞われることが多く1勝止まり。対する長谷見昌弘ドライブのリーボックスカイラインが3勝を挙げ、シリーズチャンピオンに輝いた。しかし最終戦インターTECではシエラに勝つことができず、製造者部門の王者はフォードにさらわれることに。日産4勝、フォード2勝。

1990年(平成2年) 編集

 
1990 カルソニック スカイライン
ニスモのエキシビションにて

R32スカイラインGT-Rがデビュー。全6戦ポールポジション・優勝の完全制覇を成し遂げる。同じクラス1でもGT-Rとシエラは別クラスの様相を呈し、7台のシエラ同士の「3位争い」も激戦だった。一方でスープラはトヨタがワークス活動を停止し「試合放棄」状態で低迷した。GT-R見たさにこの年の全日本ツーリングカー選手権はどのラウンドも超満員。最終戦インターTECは主催者発表で87,500人と、WECを上回る動員を記録した。第5戦西仙台(現仙台ハイランド)からはオブジェクトTもGT-Rを導入し3台体制となった。ちなみにこのレース(第5戦)ではGT-Rが表彰台を独占した。 シリーズチャンピオンはカルソニックスカイラインの星野一義が獲得。カルソニック5勝、リーボック1勝。

1991年(平成3年) 編集

クラス1には前年のインパル(ブリヂストン)、ハセミ(ダンロップ)、オブジェクトT(トーヨー)に、ヨコハマを履くタイサンが新たにGT-R勢に加わり、計4台のGT-Rがフル参戦。シーズン途中には日産のジュニア・フォーミュラだったザウルスカップの東西チャンピオンが育成を兼ねてスポット参戦した。一方トヨタは、スープラが撤退しクラス3のカローラのみの参戦に。シエラ勢は開幕戦では2台参加したが、第2戦以降はFETのみのエントリーという状態となり、最終戦INTER-TECでついにFETもGT-Rへと鞍替えしたため国内からの参加はなくなり、INTER-TECへ来日した海外勢のシエラ1台を除き、クラス1はついにGT-Rのワンメイク状態になった。クラス3では市販車のモデルチェンジに合わせINTER-TECでAE101カローラレビンがデビュー。

シリーズチャンピオンはリーボックスカイラインの長谷見昌弘

1992年(平成4年) 編集

クラス1は7台のGT-R(インパルハセミ日鉱共石、オブジェクトT、タイサン、HKSFET)のワンメイク状態。最終戦のインターTECではタイ人ドライバー2人を擁するGT-Rがもう1台参戦した。GT-R勢はNISMOの主導でマシン制作やエンジンメンテナンス、チューニングが行われることになり[3]、日鉱共石はNISMOの社内チームとして登場だった[4]。一方で、HKSは自社メンテナンス体制を形成し、チューニングに対して独自のアプローチを行った。タイサンは高橋健二に代わって高橋国光が参戦、土屋圭市との新旧「ドリフトキング」のタッグによる「ドリキンコンビ」が結成し、後のチーム国光への源流となった。チャンピオンは2勝を挙げた長谷見昌弘が2年連続で獲得。インパル3勝、ニスモ2勝、オブジェクトT1勝。クラス3にはEG6シビックがデビュー。

1993年(平成5年) 編集

翌年からFIAクラスⅡ・ニューツーリングカー(2.0Lエンジン搭載の4ドアセダン、後スーパーツーリングカーと改称)への移行が決定し、このシーズンがグループAカテゴリー最終年。参加車両はR32スカイラインGT-R(クラス1)、BMW M3(クラス2)、AE101カローラレビン、EG6シビック(共にクラス3)の4車種だけになってしまったが、グループAラスト・イヤーと言うことで、どのラウンドもサーキットは超満員。最終戦INTER-TECは主催者発表で94,600人の大観衆を集めた。1960年代の日本GPを除けば、富士スピードウェイの観客動員最高記録である。

クラス1のGT-Rは前年と変わらぬ陣容で7台がエントリー。この年は日鉱共石に加えてタイサンもニスモ社内チームへと移行している[4]。FET以外のGT-Rが勝利を収めたが、4勝あげたカルソニックがチャンピオンに。ただし星野はMINEF3000でクラッシュした影響で、翌週開催の第2戦SUGOを欠場(代役はアンデルス・オロフソン)。ドライバーズタイトルはフル参戦したチームメイトの影山正彦が手にした。終わってみれば、1990年(平成2年)の初参戦以来、4年間でGT-Rは29戦全勝を飾ったほか、この間のポールポジション、ファステストラップもGT-R勢が記録するなど、圧倒的な強さを維持し、誇示し続ける結果となった。

歴代チャンピオン 編集

情報源:[5]

クラス1 編集

ドライバーズ
(マシン)
マニュファクチャラー
1985年   長坂尚樹  茂木和男
BMW・635CSi
BMW AG
1986年   鈴木亜久里
日産・スカイライン
日産自動車株式会社
1987年   長坂尚樹
フォード・シエラRSコスワース
FORD
1988年   横島久
フォード・シエラRSコスワース
FORD
1989年   長谷見昌弘  アンデルス・オロフソン
日産・スカイライン
FORD
1990年   星野一義  鈴木利男
日産・スカイラインGT-R
日産自動車株式会社
1991年   長谷見昌弘  アンデルス・オロフソン
日産・スカイラインGT-R
日産自動車株式会社
1992年   長谷見昌弘  福山英朗
日産・スカイラインGT-R
日産自動車株式会社
1993年   影山正彦
日産・スカイラインGT-R
日産自動車株式会社

クラス2 編集

ドライバーズ
(マシン)
マニュファクチャラー
1985年   辻本征一郎
日産・シルビア
日産自動車株式会社
1986年   高杉好成
三菱・ミラージュ
三菱自動車工業株式会社
1987年   柳田春人
BMW・M3
BMW Motorsport GmbH
1988年   柳田春人  ウィル・ホイ
BMW・M3
BMW Motorsport GmbH
1989年   高橋健二
BMW・M3
BMW Motorsport GmbH
1990年   ローランド・ラッツェンバーガー  中川隆正
BMW・M3
BMW Motorsport GmbH
1991年   ローランド・ラッツェンバーガー  トーマス・ダニエルソン
BMW・M3
BMW Motorsport GmbH
1992年   茂木和男
BMW・M3
BMW Motorsport GmbH
1993年   アンドリュー・ギルバート=スコット  中谷明彦
BMW・M3
BMW Motorsport GmbH

クラス3 編集

ドライバーズ
(マシン)
マニュファクチャラー
1985年   星野薫
トヨタ・カローラレビン
トヨタ自動車株式会社
1986年   伊東薫  津々見友彦
ホンダ・シビック
トヨタ自動車株式会社
1987年   中子修  岡田秀樹
ホンダ・シビック
本田技研工業株式会社
1988年   中子修  岡田秀樹
ホンダ・シビック
本田技研工業株式会社
1989年   茂木和男  小幡栄
トヨタ・カローラレビン
本田技研工業株式会社
1990年   鈴木恵一  新田守男
トヨタ・カローラレビン
本田技研工業株式会社
1991年   中子修  岡田秀樹
ホンダ・シビック
本田技研工業株式会社
1992年   中子修  岡田秀樹
ホンダ・シビック
本田技研工業株式会社
1993年   服部尚貴  金石勝智
ホンダ・シビック
本田技研工業株式会社

主な出場ドライバー 編集

主な参戦メーカー 編集

主な参戦チーム 編集

脚注 編集

  1. ^ 連続する12ヶ月間に5,000台以上製造された量産車
  2. ^ 開幕当初は、排気量2.5L超のDiv.3、2.5L以下のDiv.2、1.6L以下のDiv.1であったが、1998年(平成10年)以降はそれぞれClass1、Class2、Class3に変更された
  3. ^ 全日本ツーリングカー選手権 土屋圭市 涙の表彰台!! Gr.A R32GT-R RACE【Best MOTORing】1992https://www.youtube.com/watch?v=pAns1iFEjc42024年3月12日閲覧 
  4. ^ a b Racing GT-R HISTORY ~写真で振り返る、熱きDNAの系譜~”. NISMOホームページ. 2024年3月12日閲覧。
  5. ^ 歴代チャンピオンリスト レース”. モータースポーツトップ. 2021年11月27日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集