内藤 信親(ないとう のぶちか)は、江戸時代後期の大名老中越後国村上藩の第7代藩主。第6代藩主・内藤信敦の三男。母は寛政の改革で有名な老中松平定信の娘である。

 
内藤 信親
時代 江戸時代末期 - 明治時代初期
生誕 文化9年12月22日1813年1月24日
死没 明治7年(1874年5月14日
別名 信思、藤翁
官位 従五位下豊前守、従四位下紀伊守、侍従
幕府 江戸幕府
越後村上藩主
氏族 内藤家 (信成系)
父母 父:内藤信敦
母:松平定信の娘(牧野忠精の養女)
兄弟 信方信親
正室:酒井忠器の娘
実子:信任、養子:信民信美
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略伝 編集

世子だった兄の信方文政5年(1822年)に死去したため、嫡子となる。文政8年(1825年)、父の死により家督を継いだ。

幕府の要職を務めた父と同様、幕閣では寺社奉行大坂城代京都所司代老中を歴任した。嘉永4年(1851年)から11年にわたり老中を務め、幕政の中枢を担ったが、文久の改革公武合体の失敗の責任などを問われ、お役御免となる。皇女和宮(親子内親王)が降嫁した際、同じ字を使うのを憚って「信思(のぶもと)」と改名した。また、晩年は雅号として「藤翁(とうおう)」と名乗った。

実子の信任が早世していたため、岩村田藩内藤家から信民を養子に迎え、元治元年(1864年)に隠居して家督を譲る。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わり、明治新政府軍に抵抗した。ちなみに、対応に苦慮した信民は自害している。そのため岸和田藩岡部家から信美を改めて養子に迎えた。

戦争終結後の明治元年(1868年)、明治政府から罪を問われ、謹慎処分を受けた。明治7年(1874年)に63歳で死去した。

経歴 編集

  • 1812年(文化9年)12月22日、内藤信敦の三男として生誕
  • 1825年文政8年) 村上藩主就任
  • 1843年天保14年) 寺社奉行
  • 1848年(嘉永元年) 大坂城代
  • 1850年(嘉永3年) 京都所司代
  • 1851年(嘉永4年) 老中
  • 1862年文久2年) 免職
  • 1864年(元治元年) 養子の内藤信民に家督を譲り、隠居
  • 1868年明治元年) 北越戦争で幕府方についたため謹慎処分
  • 1869年(明治2年) 赦免
  • 1874年(明治7年)5月14日、没 齢63

系譜 編集

父母

正室

子女

養子