劉 余(りゅう よ、? - 前128年)は、前漢景帝の息子。武帝の異母兄に当たる。劉餘とも表記される。

略歴 編集

母は程姫。景帝前2年(紀元前155年)に淮陽王に立てられ、翌年、呉楚七国の乱が起こり呉王らが敗れた後、魯王に移封された。

劉余は宮殿造営や狩猟などを好み、晩年は音楽を好むようになった。また吃音で会話が苦手だった。

景帝の時代、魯王のとなった田叔が魯へ赴任すると、財物を召し上げられたと領民100人以上が訴え出た。田叔が領民を逆に叱責したことを知ると、それを恥じた劉余は私費で領民たちに賠償した。

また、宮殿造営のために孔子の旧宅を破壊しようとしたところ、鐘や琴の音が聞こえてきたので、破壊するのをやめた。その後、旧宅の壁の中から古文(古代文字)の経書が発見された。『漢書劉歆伝によれば『礼』の逸文39篇や『書経』16篇があり、孔安国によって後に皇帝に献上された。

元朔元年(紀元前128年)に死去し、共王[1]あるいは恭王[2]された。子の魯安王劉光が後を継ぎ、魯王はその後一時期断絶したが王莽の時代まで存続した。

後漢末の劉焉(諸説あり)[3]および劉表劉洪はその子孫である。

子女 編集

  • 安王 劉光
  • 広戚節侯 劉将
  • 寧陽節侯 劉恬
  • 瑕丘節侯 劉政
  • 公丘夷侯 劉順
  • 郁桹侯 劉驕 - 劉表の祖。
  • 西昌侯 劉敬

脚注 編集

  1. ^ 『史記』五宗世家
  2. ^ 『漢書』王子侯表、『後漢書』劉表伝
  3. ^ 高島俊男著『三国志きらめく群像』276頁によると、劉焉は後漢章帝の皇子であった平春悼王の劉全の末裔だと推測されている。平春は江夏郡の地名である。

参考文献 編集