危険な年』(原題:The Year of Living Dangerously)は、1982年オーストラリア映画。監督はピーター・ウィアー[3]

危険な年
The Year of Living Dangerously
監督 ピーター・ウィアー
脚本 デイビット・ウィリアムソン、ピーター・ウィアー、クリストファー・J・コッチ
原作 クリストファー・J・コッチ
製作 ジェームズ・マッケルロイ
出演者 メル・ギブソン
シガニー・ウィーバー
ビル・カー
マイケル・マーフィー
リンダ・ハント
ノエル・フェリアー
音楽 モーリス・ジャール
撮影 ラッセル・ボイド
編集 ビル・アンダーソン
公開 オーストラリアの旗 1982年12月17日
アメリカ合衆国の旗 1983年1月21日
日本の旗 1984年7月14日
上映時間 114分
製作国 オーストラリアの旗 オーストラリア
言語 英語タガログ語フィリピン語インドネシア語
興行収入 オーストラリアの旗 A$2,393,000[1]
アメリカ合衆国の旗 $10,278,575[2]
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1965年、スカルノ政権末期のインドネシアで、放送局の特派員と英国大使館の秘書が恋に落ち、国家的動乱に巻き込まれていく様を描く。男性カメラマン役を演じたリンダ・ハントアカデミー助演女優賞を男性役で受賞した[4]

ストーリー 編集

1965年春、スカルノ政権末期のインドネシア。共産党(PKI)や反体制勢力が力を持ち始め、20年間も独裁権力をほしいままにしてきたスカルノも、政権の座をおびやかされていた。

オーストラリアの放送局員ガイ・ハミルトン(メル・ギブソン)が特派員としてジャカルタにやって来る。ハミルトンはホテルでワシントン・ポストのカーティス(マイケル・マーフィー)、ヘラルド紙のウォーリー(ノエル・フェリアー)、フリーのカメラマン:ビリー・クワン(リンダ・ハント:男性役)と会う。クワンはハミルトンに好意を示し、彼のために共産党のリーダー、アイディットへの独占インタビューを段取りし、成功させる。その記事はハミルトンのスクープとして高く評価される。

ホテルのプールサイドで、ハミルトンはクワンに英国大使館のヘンダーソン(ビル・カー)とその秘書ジル・ブライアント(シガニー・ウィーヴァー)を紹介される。ジルは二週間後にロンドンに帰る予定だった。ジルとハミルトンは、お互いにひかれて行く。

街には反体制のデモ隊が溢れ、ハミルトンはクワンと運転手クマールを伴い取材に出かけたが、足にケガをしてしまい、クワンの家で手当てを受ける。危険な目に遭いながらも、貧困と内戦に苦しむ国民の現状を目の当たりにしたハミルトンは、心を痛めるのだった。

ある日、ハミルトンはクマールを連れて港に出かける。しかし彼が車で眠っている間に、クマールはジャワの田舎へ彼を連れていってしまう。そこで初めて、クマールとその妻タイガー・リリィがPKIのメンバーであることを知らされる。

冒頭ではスカルノ政権を肯定していたクワンだったが、子供の死を受けスカルノ批判に一転、警官隊に追いつめられ、ホテルの窓に横断幕を掲げてハチの巣にされ、劇的な死を遂げる。

ハミルトンとジルは、クワンが長年集めた情報ファイルを守るため、彼のバンガローに向かう。警官に追われた二人は、空港での再会を約して別れるが、間もなく、スカルノ失脚のニュースが伝えられる(1965年9月30日事件)。共産党のクーデター失敗に乗じて政権を奪取した軍部の共産党狩りが始まり、戒厳令が敷かれる中、ハミルトンは検問を通り抜けて、ジルの待つ空港にかけつけ、ふたりは再会する。

キャスト 編集

受賞(ノミネート) 編集

脚注 編集

  1. ^ AUSTRALIAN FILMS AT THE AUSTRALIAN BOX OFFICE” (2011年2月18日). 2011年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月13日閲覧。
  2. ^ The Year of Living Dangerously” (英語). Box Office Mojo. 2018年5月13日閲覧。
  3. ^ 危険な年 : 作品情報”. 映画.com. 2021年6月3日閲覧。
  4. ^ 自身とは違う性別の役を演じて演技部門を受賞したのはアカデミー賞史上初。