古賀峯一

日本の海軍軍人

古賀 峯一(こが みねいち、1885年明治18年)9月25日 - 1944年昭和19年)3月31日)は、日本海軍軍人。最終階級元帥海軍大将海兵34期・海大15期。連合艦隊司令長官在職中に海軍乙事件にて殉職

古賀こが 峯一みねいち
生誕 1885年9月25日
日本の旗 日本 佐賀県西松浦郡有田村
死没 (1944-03-31) 1944年3月31日(58歳没)
フィリピン
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1906年 - 1944年
最終階級 元帥海軍大将
墓所 多磨霊園
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生涯 編集

1885年(明治18年)9月25日、佐賀県西松浦郡有田村(現・有田町泉山[1])に生まれる[1]。生家は現存し(2020年現在)、生家前には2002年に記念碑が建立されている[1]佐賀中学校在学時には、誠友団と名づけた交友団体に属していた。会員には吉田善吾(海兵32期)や小説家の下村湖人がおり、下村の『次郎物語』に登場する新賀峯雄は古賀である[2]

1903年(明治36年)12月17日、海軍兵学校34期)に、席次195名中29番で入校。同期生に佐藤三郎和田秀穂住山徳太郎らがいる。1906年(明治39年)11月19日、175名中14番の成績で卒業。

当時の帝国海軍の大勢を占めていた大艦巨砲主義論者ではあったものの、対英米条約協調派の1人であり、ロンドン海軍軍縮会議の際は海軍省先任副官を務め、山梨勝之進堀悌吉下村正助などと協同して暗殺される覚悟で条約締結に尽力。米内光政山本五十六井上成美などとも親しく、井上は古賀の事を「非常にものの判断の正しい人」と高く評価していた。また、山本や堀とは個人的にも親しかった。

1937年(昭和12年)12月1日、軍令部次長。

1939年(昭和14年)10月21日、第二艦隊司令長官に親補される。12月14日勲一等瑞宝章

 
左から松平恒雄嶋田繁太郎、古賀、百武三郎
戦艦「武蔵」艦上にて

1941年(昭和16年)9月1日支那方面艦隊司令長官に親補される。12月、太平洋戦争開戦。

1942年(昭和17年)5月1日、海軍大将に親任される。11月10日、横須賀鎮守府司令長官に親補される。

1943年(昭和18年)4月21日、前任の山本五十六大将の戦死に伴い、連合艦隊司令長官に親補される。25日、旗艦武蔵の在泊するトラックに着任[3]。第二航空戦隊航空参謀だった奥宮正武少佐によれば、古賀は海軍士官の中では大柄な方で、どちらかといえば言葉数の少ない提督であり、軍令系統の人で山本大将とは異なる意味で最適な人事に思われたが、航空部隊の指揮官としての経験がないことが気がかりであったという[3]。連合艦隊司令長官に着任した古賀は、戦艦「金剛」以下の護衛をつけ、戦艦「武蔵」で山本五十六の遺骨をトラック島から東京まで送り届けた。

5月8日、トラック泊地の連合艦隊司令部(旗艦・武蔵)での作戦会議で、「日本海軍の兵力は米海軍のそれの半量以下で、勝算は三分の一もない」「活路を見出すためにマーシャルギルバート方面で、玉砕を覚悟で艦隊決戦を行う」と訓示を行う[4]

11月、ソロモン方面ではろ号作戦を、中部太平洋方面ではギルバート・マーシャル諸島の戦いを指揮した。古賀は、前任の山本五十六大将のい号作戦の故知にならいろ号作戦を自ら発意して実行した。その結果、母艦航空兵力を消耗して回復に時間が必要になり、前方海域決戦の思想が後退することになった[5]。守りの姿勢に転換し、艦隊決戦を行うならば離島守備隊も捨石にするという玉砕をかけての千早城戦法を採用し、洋上戦ではバルチック艦隊邀撃戦法によって敵の主力艦隊と艦隊決戦を行おうとする戦法を採用して、新Z号作戦を策定した。

パラオ大空襲1944年(昭和19年)3月30日 - 31日)のさなか、旗艦・武蔵からパラオの陸上に移っていた連合艦隊司令部は、急遽パラオからダバオ飛行艇で移動することとなった。しかし、古賀の搭乗していた飛行艇は途中で消息を絶ち、3月31日付で殉職と認定された(海軍乙事件)。2018 - 19年頃に一部の新聞で「不時着後ゲリラに捕まり、のち解放されたが、救出に当たった陸軍部隊の拳銃を借りて自決した」との報道がなされた[要出典]。古賀は3月31日付で元帥府に列せられ[6]、同日付で従三位から正三位に位階を追陞された[7]。また、同盟国ドイツから柏葉騎士十字章が贈られた。

死後 編集

 
古賀の墓(左)

墓所など 編集

古賀の葬儀は国葬とならなかったものの、墓所は東京都多磨霊園の名誉霊域に東郷平八郎、山本五十六と並べて作られるという待遇であった。しかしながら古賀の墓は他の二人と比べて質素となっており、古賀が戦死した時の連合艦隊参謀長であった福留繁が戦後になって「古賀の墓碑を立派なものに建て替えたい」と考えて古賀宅を訪問したところ、応対した古賀の妻は福留に「古賀はなんのお手柄一つ立てずあのような死を遂げたのですから、今の墓石で十分です、故人もそう思っているのにちがいありません」[8]と述べた[8]

殉職後に元帥府に列せられたが、その時下賜された元帥刀と元帥正刀帯は、横須賀市田浦の海上自衛隊第2術科学校資料室に展示されている。

顕彰活動 編集

出身地である佐賀県の有田町では、1980年に同町内の陶山神社に慰霊碑が建立され、有田町出身・在住の陶芸家人間国宝に認定されている井上萬二が会長を務める顕彰会が、慰霊祭を毎年挙行している[1]。2018年5月12日に行われた第39回慰霊祭には佐賀県知事が出席し、海上自衛隊の儀仗隊が参加した[1]

生前の古賀が、やはり有田町出身の実業家で親しくしていた江副孫右衛門(東洋陶器(現・TOTO)社長)に宛てた手紙(1937年(昭和12年) - 1943年(昭和18年)に書かれたもの)が、2019年6月に、江副の孫から井上萬二に託された[9]。井上は「この手紙を機に、町内にある古賀元帥の生家を記念館にして展示できたら」と述べた[9]

年譜 編集

 
墓所は東京都府中市多磨霊園に所在。

栄典 編集

位階
勲章等

出典 編集

  1. ^ a b c d e 有田出身の連合艦隊司令長官、古賀元帥「地元挙げ顕彰を」 町に慰霊祭主催要請へ”. 西日本新聞Web (2018年5月20日). 2019年3月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月19日閲覧。
  2. ^ 『最後の砦 提督吉田善吾の生涯』pp.124-126
  3. ^ a b 奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学研M文庫272頁
  4. ^ 奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学研M文庫274頁
  5. ^ 戦史叢書71巻 大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期 108頁
  6. ^ a b 元帥府ニ列セラレ特ニ元帥ノ称号ヲ賜フ 海軍大将 古賀峯一」 アジア歴史資料センター Ref.A03023543500 
  7. ^ 故元師陸軍大将古賀峯一位階追陞の件」 アジア歴史資料センター Ref.A12090468500 
  8. ^ a b 福留 1971, pp. 48–53, 第一章 終生の恨事 - 嗚呼元帥古賀峰一大将の戦死
  9. ^ a b 古賀元帥の手紙、故郷へ 有田焼・人間国宝井上氏に寄託”. 西日本新聞. 2019年6月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月21日閲覧。
  10. ^ 『官報』第3953号「叙任及辞令」1940年3月12日。
  11. ^ 『官報』第2978号「叙任及辞令」1922年7月6日。

参考文献 編集

関連文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集

軍職
先代
山本五十六
連合艦隊司令長官
第28代:1943年4月21日 - 1944年3月31日
次代
豊田副武