吉田 重俊(よしだ しげとし)は、戦国時代武将長宗我部氏の家臣。

 
吉田 重俊
時代 戦国時代
生誕 明応7年(1498年)?
死没 元亀元年(1570年)?
別名 大備後(通称)
官位 備後守
主君 長宗我部国親元親
氏族 土佐吉田氏
父母 吉田則弘
兄弟 孝頼重俊
重康江村親家
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出自 編集

土佐国国人である土佐吉田氏は、藤原北家秀郷流の末裔を称する山内首藤氏の支流。山内首藤俊通の子・俊宗足利尊氏に従い、功を上げ土佐に所領を得たことを始まりとする。

生涯 編集

長宗我部国親元親の2代にわたって仕えた。智勇に優れ、国親の大津城攻撃では長宗我部軍の先手として活躍する。弘治4年/永禄元年(1558年)に上夜須城主に任ぜられる。永禄12年(1569年)から始まる安芸国虎討伐戦においては、一族の吉田孝俊と共に奇計によって安芸軍を敗走させ、籠城した安芸軍を計略を以って内部崩壊に導いた。

夜須川の(海津見神社)に、孫・孝俊中富川の戦いで討死。)奉造造立の棟札が残る。

曽孫・康俊長宗我部氏改易の後、大坂に移住。後に松平家に仕えて姫路に移る。