國都劇場(こくとげきじょう、朝鮮語: 국도극장)は、かつて存在した大韓民国映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。1913年(大正2年)1月1日、日本統治時代の朝鮮京城府黄金町(現在の大韓民国ソウル特別市中区乙支路)の黄金遊園地内に映画館黄金館(こがねかん)として開館した[1][2][3][4][5][10]黄金演藝館(こがねえんげいかん、新漢字表記黄金演芸館)とも呼ばれる[1][10]。1929年(昭和4年)には東亜倶樂部(とうあクラブ)と改称[6][7]、その後、1940年(昭和15年)前後には京城寶塚劇場(けいじょうたからづかげきじょう、新漢字表記京城宝塚劇場)と改称した[8][9]第二次世界大戦終了後は日本人による経営から離れ、アメリカ軍が接収した[1][2]。1948年に國都劇場と改称、1954年5月14日、韓国民間の手に戻された[1][2]。1999年に閉館・解体された[2]

國都劇場
국도극장
Kukdo Theatre
広告に使用されたロゴ。
種類 事業場
市場情報 消滅
略称 黄金館、東亜倶樂部、京城寶塚劇場(旧称)
本社所在地 大韓民国の旗 大韓民国
ソウル特別市中区乙支路4街310番地
設立 1913年1月1日
業種 サービス業
事業内容 映画の興行
所有者 下記参照
関係する人物 田村みね
特記事項:略歴
1913年1月1日 黄金館開館
1948年 國都劇場と改称
1999年9月 閉館・解体
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沿革 編集

  • 1913年1月1日 - 黄金館として開館[1][2][10]
  • 1917年5月 - 洋館に改築[3]
  • 1929年 - 東亜倶樂部と改称[5][6][7]
  • 1935年 - 鉄筋コンクリート造に改築[2]
  • 1940年前後 - 京城寶塚劇場と改称[8][9]
  • 1945年 - アメリカ軍が接収[1]
  • 1948年 - 國都劇場と改称[1][2]
  • 1954年5月14日 - 韓国民間の手に戻される[1]
  • 1997年 - 休館状態へ[2]
  • 1999年9月 - 閉館・解体[2]

データ 編集

概要 編集

日本統治の時代 編集

1913年(大正2年)1月1日、日本が統治していた時代の朝鮮の京城府黄金町4丁目310番地(現在の大韓民国ソウル特別市中区乙支路4街310番地)に、黄金館として開館した[1][2][10]。当時の黄金町は日本人街として知られ、同館は黄金遊園地のなかにつくられた[3]黄金演藝館とする資料も存在する[1][10]。1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』によれば、1917年(大正6年)5月に約5万円(当時)を投じて洋館に改築されており、敷地は600坪(約1,983.5平方メートル)、当時の同館の所有者は田村みね、支配人は南郷公利、興行系統は帝国キネマ演芸、観客定員数は1,500名を収容しうる大きな劇場であった[3]。当時の同館の従業員数は35名、うち映画説明者(活動写真弁士)が5名、楽士が7名であった[3]。当時の同館では『肉弾』(監督若山治、製作配給帝国キネマ演芸、1924年4月2日公開[11])、『籠の鳥』(監督松本英一、主演澤蘭子、製作配給帝国キネマ演芸、同年8月14日公開[12])、『ラ・バタイユ』(監督エドゥアール=エミール・ヴィオレ、主演早川雪洲、フランス公開1923年12月23日[13]、日本公開1924年[14])等が上映され、好評を博したという記録が残っている[3]

 
黄金館時代に上映した『黄金狂時代』(1925年)

昭和に入ると所有者は田村ノブ、支配人は早川孤舟、興行系統は東亜キネマパラマウント映画ユニヴァーサル映画に変わっており、当時の同館では菊池寛『第二の接吻』を原作とした『京子と倭文子』(監督伊藤大輔、製作聯合映画芸術家協会・伊藤映画研究所、1926年1月22日公開[15])、『十誡』(監督セシル・B・デミル、アメリカ公開1923年11月23日、日本公開1925年2月6日[16][17])、『黄金狂時代』(監督主演チャールズ・チャップリン、アメリカ公開1925年6月26日、日本公開同年12月31日[18])等が上映され、好評を博した記録が残っている[4]。1929年(昭和4年)には東亜倶樂部と改称[5][6][7]、所有者は田村ノブから東亜キネマ(代表・徳永熊一郎)の直営になって支配人は佐々木健之助に変わり、興行系統は東亜キネマのみ、観客定員数も1,000名になっている[5][6]。1935年(昭和10年)には、鉄筋コンクリート造に改築され、大理石でつくられた宮殿風のこの建物は、同館が閉館するまで使用された[2]。この新築以降の観客定員数は1,136名である[8][9]

1940年(昭和15年)前後には京城寶塚劇場と改称、東宝映画の劇場部門の直営館になっている[8][9]。第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、1942年(昭和17年)、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』には同館の興行系統については記述されていない[8]

國都劇場の時代 編集

1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦が終了し、同年9月8日から1948年8月15日に大韓民国が建国されるまでの間は、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁がこの地域を統治した。同館はアメリカ軍が接収して軍が使用した[1]。大韓民国建国のころに國都劇場と改称、韓国民間の手に戻されて、改修ののち1954年5月14日に再開館した[1]。1955年には、同館で『春香伝』(原題춘향전、監督李圭煥朝鮮語版)が公開され、同国の映画史に残るヒットとなった[1]。1968年7月16日に公開された青春映画『憎くてももう一度』(原題미워도 다시 한 번、監督鄭素影[19])も同劇場で上映されており、そのほか多くの韓国映画が同館で公開された[1]。1974年4月26日に公開された、当時韓国映画史上最大の興行収入を樹立した『星の故郷』(原題별들의 고향、監督李長鎬朝鮮語版[20]、1975年2月11日に公開された『ヨンジャの全盛時代』(原題영자의 전성시대、監督キム・ホソン朝鮮語版)といった韓国映画の代表作が同館で公開されている[2]。しかしながら、1990年代に入ると、同館は市内他地区、忠武路等の映画館に押されるようになっていった[2]

同館の建物の解体と再開発を報じた2000年(1月18日付の東亜日報の記事によれば、1997年(平成9年)ころにはすでに休館同然の状態に入っており、1999年9月末には解体に入ったという[2]。ソウル市当局が同館の再開発を禁じ、同館の建物を文化財に指定する旨の通達を出したのは、すでに解体が始まった同年10月4日であった[2]祥明大学校のチョ・ヒムン教授は、同建物の歴史性や美観を考えれば、保存されるべきであったと述べた[2]。現在は跡地にベストウエスタン國都ホテルが建ち[1]、同館が存在したことを示す石碑が建っている。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 国都歴史 (日本語)ベストウエスタン國都ホテル、2013年11月5日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 86년 역사 '국도극장' 작년말 철거…서울시 '문화재지정' 빈축 (朝鮮語)東亜日報、2000年1月18日付、2013年11月5日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j 年鑑[1925], p.506.
  4. ^ a b c d e f 総覧[1927], p.696.
  5. ^ a b c d e f g h 総覧[1929], p.302.
  6. ^ a b c d e f g h 総覧[1930], p.599.
  7. ^ a b c d 昭和7年の映画館 朝鮮 41館、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』1932年1月1日号)、2013年11月5日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i 年鑑[1942], p.10-109.
  9. ^ a b c d e f g h 年鑑[1943], p.504.
  10. ^ a b c d e 近代韓国の映画導入と1920年代までの映画政策考察東京学芸大学、2013年11月5日閲覧。
  11. ^ 肉弾日本映画データベース、2013年11月5日閲覧。
  12. ^ 籠の鳥、日本映画データベース、2013年11月5日閲覧。
  13. ^ La Bataille - IMDb(英語), 2013年11月5日閲覧。
  14. ^ ラ・バタイユ - KINENOTE, 2013年11月5日閲覧。
  15. ^ 京子と倭文子、日本映画データベース、2013年11月5日閲覧。
  16. ^ The Ten Commandments - IMDb(英語), 2013年11月5日閲覧。
  17. ^ 十誡 - KINENOTE, 2013年11月5日閲覧。
  18. ^ 黄金狂時代 - KINENOTE, 2013年11月5日閲覧。
  19. ^ 韓国映画 - 栄光の1960年代”. 東京国立近代美術館フィルムセンター. 2013年11月5日閲覧。
  20. ^ Byeoldeului gohyang - IMDb(英語), 2013年11月5日閲覧。

参考文献 編集

  • 『日本映画年鑑 大正十三・四年』、アサヒグラフ編輯局東京朝日新聞発行所、1925年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和二年版』、国際映画通信社、1927年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』、国際映画通信社、1929年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和五年版』、国際映画通信社、1930年発行
  • 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
  • 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行

関連項目 編集

外部リンク 編集

画像外部リンク
  國都劇場址
石碑の写真
  國都劇場
1975年前後の撮影