夏侯覇

中国三国時代の魏・蜀漢に仕えた武将。豫州沛国譙県の人。車騎将軍。

夏侯 覇(かこう は)は、中国三国時代蜀漢に仕えた武将。字は仲権豫州沛国譙県の人。父は夏侯淵。兄は夏侯衡。弟は夏侯称夏侯威夏侯栄夏侯恵夏侯和。娘は羊祜の夫人。また、子が数人いた。

夏侯覇
清代の書物に描かれた夏侯覇
代の書物に描かれた夏侯覇
蜀漢
車騎将軍
出生 生年不詳
豫州沛国譙県
死去 景耀2年(259年)前後
拼音 Xiàhóu Bà
仲権
主君 曹丕曹叡曹芳劉禅
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生涯 編集

幼少の頃の事は定かではないが、魏の名門夏侯一族の中でも弓馬に傑出し、威・和・恵・栄らの弟たちと共に、その秀才ぶりが謳われていたという。建安24年(219年)、定軍山の戦いで父と弟の夏侯栄を劉備軍の黄忠に斬られた事から、夏侯覇は常に亡父の復讐の機会を窺っていた事が伝えられている。黄初年間、偏将軍に任命され、関内侯に任じられた。太和4年(230年)に、曹真が蜀征伐を行なった際には先鋒を務め、蜀軍の包囲を受けて危機に陥ったが、運良く援軍が到着したため、何とか危機を脱した。

後に右将軍、転じて征蜀護軍に昇進した。正始8年(247年)、隴西南安金城西平にて大規模な羌族の反乱が起きた為、夏侯覇は諸軍を率いて為翅に駐屯した。蜀漢の姜維はこの反乱に呼応して出撃し、夏侯覇の軍を攻撃しようとしたが、それを読んだ郭淮が救援に来たため姜維は撤退した。夏侯覇は各反乱軍を郭淮の指揮のもと撃破した。敗れた治無戴白虎文らの反乱軍は蜀に降伏をしようとしたため、再び姜維・廖化らが出撃してきた。姜維は治無戴の救援に向かったが、郭淮が廖化を諸軍を率いて攻撃しようとしたため、急ぎ廖化の救援に戻った。夏侯覇・郭淮は姜維と戦ったが敗れ(華陽国志・劉後主志)、姜維は治無戴らを迎えたうえで蜀に帰還した。

嘉平元年(249年、蜀漢の暦では延熙12年)に司馬懿曹爽を誅殺し、曹爽の従弟夏侯玄も朝廷に召喚される(後に殺害)という事件が起こった。夏侯玄は夏侯覇の従子(一族の中で一つ下の世代)に当たる続柄である。さらに仲の悪かった郭淮が、夏侯玄に代わって後任の征西将軍となった。これらの事で自らの身に危険が及ぶことを恐れ、同年の内に蜀漢へ亡命した。

裴松之が引く『魏略』(典略)によると、蜀漢の劉禅の皇后が創業の功臣である張飛の娘で、その母親(張飛の妻・187年生まれ)が夏侯覇の族妹(遠縁で同年代の親族で年下)であったことから、夏侯覇は蜀漢で手厚く持てなされ、すぐに車騎将軍に任じられた、とある。車騎将軍就任後、当時蜀の名将として知られていた張嶷に近づき、親交を深めようとしたが、性急に仲良くしようとしていることを窘められている。

それ以降の事績については、延熙18年(255年)に姜維と共に狄道に出て、魏の王経を大破した戦果(狄道の戦い)と陳祇の死(258年)より後の死没が伝えられるのみである。「趙雲伝」によると、関羽らに諡号が贈られた景耀3年(260年)以前に諡が贈られたという記述が確認できることから、この時は既に死去していたことが判断される。また「張翼伝」には、景耀2年(259年)に廖化と張翼が左右の車騎将軍に任じられたという記述があり、夏侯覇が死去して空席になった事が推測される。

なお、夏侯覇の子たちは夏侯覇が蜀に亡命した後、元勲夏侯淵の子孫ということで恩赦を受け、楽浪郡に流されたという。

『三国志演義』 編集

小説『三国志演義』では夏侯淵の長子となっているが、字の「仲権」が次男であることを示すため矛盾が生じている(伯仲叔季)。初登場は長坂の戦いで、張飛に突き落とされ河へ転落する。ただしこの「夏侯覇」は、同姓同名の別人という見方もあり、版本によっては「夏侯傑」という完全な別人として登場している。同一人物であったとしてもその後は、諸葛亮の北伐に際して司馬懿により推挙されるまで20年以上もの間、出番がない。

蜀に亡命してからは、姜維の参謀として北伐に幾度となく参加するが、第八回目の戦いで空城の計にかかり戦死してしまっている。

夏侯覇を題材とした作品 編集

小説