大久保忠常

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名

大久保 忠常(おおくぼ ただつね)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名武蔵国騎西藩の初代藩主相模国小田原藩主・大久保忠隣の長男。通称は新十郎。官位従五位下加賀守

 
大久保忠常
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正8年(1580年
死没 慶長16年10月10日1611年11月14日
別名 新十郎(通称
墓所 小田原市大久寺
官位 従五位下加賀守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠
武蔵騎西藩
氏族 大久保氏
父母 父:大久保忠隣、母:石川家成の娘
兄弟 忠常石川忠総教隆幸信石川成堯忠尚忠村貞義依田康真室、久貝忠左衛門室、勝蔓寺教了室
正室奥平信昌の娘(徳川家康養女)
忠職片桐貞昌正室、本多重能正室、里見忠義正室
養女:木下延由正室(室の奥平信昌娘の養女。実父は里見忠義であり、忠常夫妻の孫娘)
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生涯 編集

天正8年(1580年)、徳川氏の家臣・大久保忠隣の長男として誕生。母は石川家成の娘。

幼少時から優れた人物で、徳川家康秀忠父子からも気に入られており、三河譜代の子弟達と共に秀忠の御前で執り行われた元服時には、秀忠から「忠」の偏諱を賜っている。父とは別に武蔵騎西に2万石を与えられ、将来の江戸幕府を担う人材として期待されていた。忠常自身は慈悲深く温厚篤実な人物で、余人からの人望も厚く、父も忠常の将来を期待していたといわれている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠軍に従軍し、信濃国上田城の攻撃に加わっている。その功により、戦後武蔵国騎西2万石を与えられ、騎西藩主となった。

慶長16年(1611年)10月10日、32歳で死去。『徳川実紀』には、忠常の死は病死とする一方、「忠常若年ながら其権威すこぶる佐渡守(本多正信)が右に出たり。正信常にこれを嫉妬せしかば、その死に望みかれに親しき徒までも悪し様にはからひしと言ふ」と、当時、父の忠隣と権勢を競っていた本多正信・正純父子の手によって暗殺されたともとれる文がある。

ただし『当代記』に拠れば、前年春より病に罹っていたとあり、正信系本多家が断絶し、一方の大久保家が存続していた江戸後期の『徳川実紀』の編纂は、大久保家に阿る内容になっていたとしても仕方がない。『慶長見聞録案紙』に拠れば、忠常は当時最大の出頭人であり彼に恩義のある者が多かったため、上司に無断で小田原まで弔問した者が閉門処分を受けたとある。

父の忠隣は、嫡男の急死に意気消沈して屋敷に引き籠もりがちになり、慶長19年(1614年)には改易されたが、子の忠職は許され騎西城蟄居の処分となった。またこの際にも忠常への無断弔問の罪で、森川重俊日下部正冬に閉門が命じられている。

系譜 編集

父母

正室

子女

養女

関連項目 編集