岩佐又兵衛

日本の安土桃山時代~江戸時代前期の絵師。織田禅正忠家(織田信雄)の家臣。摂津有岡城主荒木村重の子で、岩佐派の祖。織田信雄家御伽衆・越前福井藩御用絵師を勤めた

岩佐 又兵衛(いわさ またべえ、天正6年(1578年) - 慶安3年6月22日1650年7月20日))は、江戸時代初期の絵師。又兵衛は通称で、は勝以(かつもち)。

岩佐 又兵衛
伝岩佐又兵衛(自画像MOA美術館
誕生日 天正6年(1578年
死没年 慶安3年6月22日1650年7月20日
死没地 江戸
国籍 日本の旗 日本
流派 岩佐派
代表作洛中洛外図屏風(舟木本)』
『山中常盤物語絵巻』
影響を受けた
芸術家
狩野派海北派土佐派
影響を与えた
芸術家
菱川師宣
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武家出身ながら画家になり、京都・福井・江戸を巡り屏風・絵巻に傑作を残した。異名に「浮世又兵衛」「吃の又平(どもりのまたへい)」がある。

略歴 編集

幼少期 編集

摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主、荒木村重の子として生まれる[* 1][1][2]

誕生の翌年の天正7年(1579年)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される。『岩佐家譜』では「西本願寺」と記されているが、当時はまだ西本願寺はなく、石山本願寺か京都の本願寺関連寺院だと推測される[3][4]

天正15年(1587年)に豊臣秀吉主催の北野大茶湯には誰かの供をして参加したらしく、その時の秀吉の思い出を後に又兵衛は自筆の紀行文『廻国道之記』に記している。成人した又兵衛は母方の姓とされる岩佐姓を名乗り[* 2][1]、信長の息子・織田信雄に仕えたという[1]。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。秀吉を慕っていた又兵衛が信雄に長く仕えたとも思われず、他にパトロンもさまざまに替えたと思われる。関白二条昭実の屋敷にも出入りしていたことがあり、廻国道之記で京都を「古郷」といい、「わかく盛んなる時、みやこに久しく住なれ、其の上二条は関白前太政大臣昭実公の御所に立ち入りし時、折節は詩歌のあそび、或る時は管弦、様々なりしを見もし聞きもするが」と記している。浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようである[5][6]

福井へ移住 編集

元和2年(1616年)、大坂の陣の翌年に、後に岩佐氏の菩提寺になる興宗寺第10世心願との出会いがきっかけで、京都を離れて北の庄(現福井県福井市)に移住する。背後に京都の文化人を誘致しようとした越前北ノ庄藩(福井藩)主松平忠直の意向があったとされるが、又兵衛は御用絵師として忠直に仕えたわけではなく、2人の関係は明らかでない。又兵衛の死後25年の延宝3年(1675年)に黒川道祐が出した随筆『遠碧軒記』で、福富立意という老人からの証言を書き留めた文章に「越前一白殿(忠直の号)御目かけられ候て」とあり、又兵衛が忠直と面識があったことが推定されるが、やはり詳しいことは分からない[7][8][9][10]

福井移住から7年後の元和9年(1623年)、忠直が不行跡により豊後へ配流された後、弟の松平忠昌に代替わりしても福井に留まり、20余年をこの地で過ごす。忠昌との関係も不明だが、少なからず関わりがあったと推測され、真宗高田派本寺の正統性を巡り一身田専修寺と争った法雲寺寛永10年(1633年)に忠昌へ提出した請願書を筆記、請願書は又兵衛の署名付きで現存している。また福井在住期は作品を多数制作、忠直時代は古浄瑠璃絵巻群以外に「旧金谷屏風」「三十六歌仙画冊」「人麿・貫之像」が確認され、続く忠昌時代は「池田屏風」「太平記 本性房振力図」「和漢故事説話図(和漢故事人物図巻)」などが確認されている。これらの活動を通じて又兵衛の名声は福井から外に広まり、弟子たちの助けを借りて多くの注文をこなしていったと推察される[* 3][12][13][14]

福井から江戸までの旅行 編集

寛永14年(1637年)、又兵衛は妻子を残して福井を離れ、京都に立ち寄ってから東海道を旅して江戸へ向かった。理由は忠直・忠昌兄弟の従弟の江戸幕府3代将軍徳川家光の招きがあったからとされ、『岩佐家譜』は又兵衛の名声を耳にした家光が娘の千代姫尾張藩2代藩主徳川光友に嫁ぐ際の装具を描くために呼び寄せたとしている[15]。福井から江戸までの旅行は旅日記・廻国道之記に書いている[* 4]

廻国道之記では最初の部分が欠落、柴の庵を出て近くの九十九橋(現福井県福井市)を通る所から文章が始まり、湯尾峠で大雪に悩まされ榛原(葉原、現敦賀市)に着いたことが書いてある。道中は氣比神宮を参詣して敦賀を出発、西近江路の荒道山を越えて海津(現滋賀県高島市)に到着、そこからは琵琶湖西岸を歩いて大津宿に宿泊、逢坂山を超えて京都へ入った。京都では二条油小路(現京都府京都市中京区)の友人と再会、懇切なもてなしを受けて10日余り滞在した間に京都のあちこちを見物、四条河原で浄瑠璃芝居や若衆踊りを見物し方広寺大仏殿三十三間堂豊国神社を訪れ、感慨に耽った文章を残している。北野大茶湯や二条昭実の屋敷での思い出も綴り懐かしい思い出に浸ったかと思えば、現在の自分の年齢と境遇(耳順・数え年60)や京都の変わりように嘆く一面も書いている。3月5日に友人たちと別れの酒を酌み交わして京都三条大橋を出発、再び逢坂山を越えて大津宿を再訪、旅の様子を綴りつつ大津から瀬田の唐橋に近付いた所で欠落、鈴鹿峠を超えて関宿に向かう所で文が続いている[* 5][20][21][22]

関宿からは東海道を進み亀山宿庄野宿石薬師宿四日市宿桑名宿まで陸路、桑名宿と宮宿の間を船で渡った(七里の渡し)。それから再び陸路で歩き行く先々で歌を詠んだり、石薬師寺熱田神宮富士山などの名所を訪れ、天竜川大井川富士川などの大河を渡り、八橋小夜の中山など伊勢物語西行にまつわる名所にも触れて感想を書いたりして旅を続け、三嶋大社へ参詣した所で廻国道之記は途切れている。又兵衛が江戸に到着した時期は不明だが、砂川幸雄は寛永14年4月初旬頃としている[* 6][22][26][27]

晩年 編集

 
興宗寺にある岩佐又兵衛の墓

寛永14年、前述の通り家光の招き、あるいは大奥で地位のあった同族の荒木局の斡旋で、幕府の御用絵師狩野探幽尚信兄弟が多忙という事情も相まって又兵衛に声がかかり、千代姫の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住む(千代姫は2年後の寛永16年(1639年)に嫁いだ)。徳川美術館所蔵の婚礼調度は又兵衛が意匠を手掛けたとされる。また寛永15年(1638年)に焼失した仙波東照宮の再建に際し、拝殿に「三十六歌仙図額」を奉納する仕事を命じられ、作業が遅れたため再建工事を指揮する大工頭木原義久から催促の手紙を送られたが、寛永17年(1640年6月17日の新社殿落成に間に合い、無事三十六歌仙図額を奉納出来た。諸大名からの注文も殺到したらしく、近江仁正寺藩市橋長政が又兵衛に送った屏風一双と袷の描き絵2枚、達磨・霊照二幅が届いたことへのお礼の手紙が残っている[28][29][30]

江戸では多忙な日々を送ったらしく、現存する又兵衛の宛先不明の手紙では金銭のトラブルや病気など苦労が綴られている。そうした中でも制作を続け、三十六歌仙図額の他に「布袋図」「月見西行図」「四季耕作図屏風」「瀟湘八景図巻」「楊貴妃図」が江戸在住期の作品とされている。晩年に描いたとされる自画像も伝わり(MOA美術館蔵)、『岩佐家譜』によれば、病にかかり回復の見込み無しと観念した又兵衛が、故郷の妻子へ送った絵とされる[* 7][34][35][36]

10年余り江戸で活躍した後、慶安3年(1650年)6月22日、73歳で波乱に満ちた生涯を終える。家は福井に残した息子岩佐勝重が継いだ。また、長谷川等伯の養子になった長谷川等哲も又兵衛の子といわれる[1]。勝重は又兵衛が形成した岩佐派を率いて福井藩御用絵師として活動、息子で又兵衛の孫岩佐以重(陽雲)も絵師になったが貞享3年(1686年)に福井藩の領地半減に伴い解雇、以重は接客役である御坊主として福井藩の支藩・松岡藩に仕え、絵師には同族の岩佐貞雲が任じられた。以後岩佐氏は幕末まで福井藩士として続いたが絵師にはならず、岩佐派も以重の解雇で終焉を迎えた[37][38]

墓所は福井県福井市の興宗寺。寺が移転した時は福井市宝永小学校の敷地内に残されたが、昭和62年(1987年)に墓も寺に移され現在に至る。その際墓の中から骨壺2個が発見、うち1個は「荒木」と墨書されていて、この骨壺に又兵衛の骨が入っているとされる[39][40]

浮世又兵衛の由来 編集

黒川道祐の『遠碧軒記』で福富立意が又兵衛と忠直について証言した記事では、狩野三甫(狩野山楽の弟子)・後藤左兵衛という画家と共に又兵衛が「浮世又兵衛」の名で掲載されていた。前者は中院通村の日記『中院通村日記』元和3年(1617年)の記事に、後者は『鹿苑日録』寛永13年(1636年)8月の記事に書かれていることから、生前既に浮世又兵衛と呼ばれていたようだが、宝永5年(1708年)上演の近松門左衛門作の人形浄瑠璃で、歌舞伎文楽の人気演目である『傾城反魂香』の主人公「吃の又平」こと浮世又平との混同が生じたせいで、伝説化しつつあった又兵衛の事績が混乱していった[41][42]。江戸時代で又兵衛は浮世絵風俗画)の元祖として語り継がれ、江戸時代の画家のうち英一蝶は又兵衛を菱川師宣の前にいる風俗画家として捉え、谷文晁は著作『本朝画纂』で勝以の作品を又兵衛だと知らずに紹介していたが、事績の混乱で又兵衛の実像は分からないままだった[43][44]

明治に入り、アーネスト・フェノロサが『国華』で、岡倉天心東京美術学校の講義で又兵衛を紹介し、段々又兵衛に関する情報が世間に広まり始めた。明治31年(1898年)になると、仙波東照宮の三十六歌仙図額裏の署名に「土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」とあるのが国華に紹介され、それまで別人として認識されていた岩佐勝以が、従来浮世又兵衛の名で呼ばれていた画人その人であることが判明した。しかし浮世又兵衛については依然として分からず、同年の『早稲田文学』で林田春潮が吃の又平と浮世又兵衛を別人と断定、国華では廻国道之記を紹介した斎藤謙が、又兵衛の作とされる彦根屏風を否定すると共に、浮世又兵衛は空想上の人物と結論付けた[44][45][46]

以後も又兵衛の研究は続き、藤原作太郎は又兵衛に低評価、アーサー・モリスン大村西崖は高評価を与えた。また浮世絵に魅了された岸田劉生は、大正15年(1926年)に発表した論文「初期肉筆浮世絵」で浮世絵の定義と魅力を語り、又兵衛の時代を初期の肉筆浮世絵時代と呼び、浮世絵の歴史上最も発達し生き生きとした時代と高評価だったが、又兵衛本人については浮世絵として最上ではないとしている[47][48]

辻惟雄は「勝以」印の諸作品を探して作風を検討し、又兵衛の風俗画屏風を探索して浮世又兵衛と呼ばれた由縁(又兵衛が風俗画家であったか)を解き明かすことに尽力、昭和59年(1984年)に福井県立美術館で開催された又兵衛展覧会に持ち込まれた「花見遊楽図屏風」を又兵衛の風俗画だと認め、又兵衛浮世絵元祖説が復活した[49][50][51]。又兵衛の作品かどうかはっきりせず、彼の作品だとなかなか認めなかった別の風俗画「洛中洛外図屏風(舟木本)」も又兵衛作だと認め(後述)、又兵衛浮世絵元祖説はこの2点の風俗画で裏付けられた[51][52]。辻は舟木本を浮世又兵衛の名の由来と捉え、浮世絵の元祖を二期に分けて又兵衛を第一期の元祖、菱川師宣を第二期の元祖に位置付けた[53]

なお、又兵衛の肖像画は伝自画像の他に、幕末から明治の画家岡本春暉が描いた肖像画があるが、典拠は不明[54]

画風 編集

絵の師匠は、村重の家臣を父に持つ狩野内膳という説があるが、よくわかっていない[55][56]俵屋宗達と並ぶ江戸初期を代表する大和絵絵師だが、牧谿梁楷風の水墨画や、狩野派海北派土佐派など流派の絵を吸収し独自の様式を作り上げた。今日では分割されてしまったが、『金谷屏風』には和漢の画題と画技が見事に融合しており、その成果を見ることが出来る[57][58]。人物表現にもっとも又兵衛の特色が現れ、たくましい肉体を持ち、バランスを失するほど極端な動きを強調する。相貌は豊かな頬と長い顎を持ち「豊頬長頤(ほうぎょうちょうい)」と形容される[59]。これは中世の大和絵で高貴な身分の人物を表す表現であるが、又兵衛はこれを誇張し、自分独自のスタイルとしている。古典的な題材が多いが、劇的なタッチとエネルギッシュな表現が特色のその作品は、しばしば浮世絵の源流といわれる。

又兵衛の作品は「洛中洛外図屏風(舟木本)」や「山中常盤物語絵巻」「浄瑠璃物語絵巻」など1人では到底描き切れない長大な絵巻群、又兵衛印のある作品でも表現の微妙な差異が見られることから、又兵衛の制作を支えた又兵衛工房と言うべき絵師集団の存在が挙げられている。活動の実態を示す資料は無いが、制作は又兵衛が指揮を執って作品の構想を練り、下書きを行い彩色・文様など作品の企画・指示を出す、それを基に画風に習熟した優れた絵師が下の絵師を使いながら彩色や背景の処理を分担して進める、最後に又兵衛が仕上げやチェックを行い、必要によって落款を入れ作品を完成させるという流れが想定される。工房は京都時代、舟木本を制作した時期の慶長19年(1614年)頃に組織され、又兵衛は移住先の福井と江戸にも工房を持ち、数多くの注文をこなしていたと考えられる。京都の工房は福井に移転または残されたとされ、福井の工房は江戸出府に際し勝重に引き継がれたとされる。又兵衛死後、工房および所属していた絵師たちの消息は不明だが、「源氏物語図屏風」(出光美術館蔵)を描いた岩佐勝友、「江戸名所風俗図」(江戸名所図屏風とも。出光美術館蔵)を描いた名称不明の絵師など、又兵衛の影響がある絵師の作品が残されている[60][61]

代表作としては舟木本や山中常盤物語絵巻、三十六歌仙図額、肉筆「職人尽」が挙げられる。初期風俗画の先駆者の一人であった。

又兵衛作品の真贋論争 編集

昭和3年(1928年)、雑誌編集者で第一書房の創業者長谷川巳之吉は「山中常盤物語絵巻」が海外流出される寸前だと聞くと、家財を抵当に入れてまで捻出した金で絵巻群12巻を買い取り流出を防いだ。この絵巻群は忠直の子孫が治める津山藩に伝わり、大正14年(1925年)に売りに出された後、流出寸前の所を長谷川に渡った経緯を辿った。これを機に又兵衛作と伝わる他の絵巻も世に出され、「堀江物語絵巻」「浄瑠璃物語絵巻」「小栗判官絵巻」も紹介され、長谷川の絵巻公開など大々的なキャンペーンも相まって、これら「又兵衛風絵巻群(古浄瑠璃絵巻群)」とも言われる作品群は脚光を浴びた[44][62][63]

しかし、昭和4年(1929年7月23日大阪朝日新聞に又兵衛作肯定論の記事を出した春山武松に対して、早くも評論家笹川臨風が雑誌『美之国』8月号にて又兵衛作に疑問を出し、翌昭和5年(1930年5月10日には帝室博物館学芸委員の藤懸静也國民新聞で否定論を出したことによりセンセーションが巻き起こり、又兵衛作品の真贋論争(又兵衛論争)が始まった。同年5月16日の國民新聞で藤懸の主張に反論した長谷川を始め、21日から24日まで國民新聞に藤懸の主張への疑問を投稿した野口米次郎、昭和6年(1931年)に再び又兵衛作肯定論を出した春山、昭和7年(1932年)9月に春山の肯定論に反論して否定論に加わった田中喜作など、又兵衛論争は新聞・雑誌のインタビューや出版本などで繰り広げられた[44][64][65]。やがて昭和9年(1934年)に肉筆浮世絵偽造事件(春峯庵事件)が発覚すると、長谷川は贋作グループから又兵衛の贋作を持ち込まれ、出版までしたことが明らかになり、笹川は贋作グループから鑑定料を受け取ったことが発覚して面目を失い、公職から身を引いた。それにより又兵衛論争も沙汰止みになり、話題に上らなくなった又兵衛風絵巻群は世界救世教始祖の岡田茂吉が収集、現在は彼が建てた熱海美術館(現MOA美術館)に保管されている[* 8][44][72][73]

それからの又兵衛風絵巻群の真贋検討は辻惟雄が行い、MOA美術館に通い詰めて絵巻群を見比べて検討した末、山中常盤物語絵巻は又兵衛の真作、他の絵巻は工房作と結論付けた[* 9][51][78]

代表作(工房作を含む) 編集

京都在住時代 編集

又兵衛の最高傑作にして、浮世絵の源流ともなった美術史上の記念碑的作品。

元は滋賀県長浜市の舟木家で発見されたため、他の洛中洛外図と区別する必要もあって舟木本とも呼ばれる。昭和24年(1949年)秋、美術史家・源豊宗が長浜の医師舟木栄の家に立ち寄った際に客間に立ててあり、源は「紛らう方なき岩佐勝以の特徴的な野生的躍動的な作風が歴然としている」とし又兵衛の初期作と直感した。舟木によれば彦根の某家の旧蔵であったものという。その後昭和32年(1957年)に国所有となり、東京国立博物館管理となった[80]。又兵衛研究の権威であった辻惟雄は「又兵衛前派」の作として50年近くに亘り又兵衛作を否定してきたが、辻自身の変心により又兵衛作が定説となり、平成28年(2016年)に「岩佐勝以筆」として国宝指定された[* 10]
源によれば、「新しく夜明けを迎えた庶民の生活感に溢れた自由闊達な姿が生き生きと描写され、生を謳歌する巷の声が騒然とひびいている。勝以画の人物独特の豊頬長頤で、反り身の姿態、裾すぼまりの服装など彼ならではの強靭な弾力を帯びて画かれている」と評されている[83]
黒田日出男により、右隻の豊国神社に描かれた豊国定舞台で演じられている能楽は慶長19年8月19日、翌慶長20年(元和元年・1615年)に破却されるこの舞台で能楽が演じられた最後の日の最後の演目『烏帽子折』(長ハン)であることが判明した。この日がこの屏風作成年代の上限である[84]。右隻の五条橋で踊る老後家尼は豊国神社での花見から帰る高台院(秀吉の後家、北政所)と特定された[85]。また、二条城で訴訟を主宰し、女の訴えを聞いている人物は羽織の紋様(九曜紋)から京都所司代板倉勝重と特定された[86]。二条城の大手門を潜ろうとしている公家は慶長18年(1613年7月3日、共に公家衆法度の作成に尽力した勝重から振舞いに招かれた武家伝奏広橋兼勝と特定された[87]。左隻の中心軸上に描かれている印象的な武家行列の主は駕籠舁きの鞠挟紋から、勝重の次男にして徳川家康の近習出頭人・板倉重昌と特定された[88]
このように注文主は板倉家または板倉家と繋がりが深い人物であることが予想されるが、黒田による資料の博捜と精密な読解により、注文主は下京室町の呉服商で勝重の呉服所となっていた「笹屋(半四郎)」と特定された[89]。ただし反論もあり、平成29年(2017年)刊行の『別冊太陽』に掲載された佐藤康宏と辻惟雄の対談で佐藤は笹屋注文主説に異議を唱え、笹屋が屏風を注文する理由が不明な点を挙げて武家が注文主ではないかと推測、辻は勝重が注文主だが金は笹屋が出したので、舟木本で笹屋を描かせてもらったと推測した[90]
豊臣秀吉の七回忌に当たる、慶長9年(1604年8月12日から18日にかけて盛大に行われた臨時大祭の光景を描いた作品。舟木本と比べ、人体表現に不自然な写し崩れや歪みが見られる事から、舟木本の後に制作されたと考えられる[91]。狩野内膳の同名の作品(豊国神社本)と区別され、徳川美術館本とも呼ばれる[92]
公式記録画の趣きがある豊国神社本と比べ、大祭の記録に無頓着で、混沌とした熱狂的エネルギーを画面いっぱいに描き出した風俗画となっている[93]。千切れるような金雲の表現、高い視点で俯瞰的に描く豊国神社本に対して低い視点で前面の騎馬行列と踊り狂う群衆を描く、豊国神社と方広寺は一部しか描かれていないなど豊国神社本との違いがそこかしこに見られる[94]。また右隻は周囲にかぶき者同士の喧嘩や男女の逢引を描き、左隻は風流踊を類まれな群像表現と緻密さと色彩で克明に描き、祭礼の狂騒をエネルギッシュに描き出している[95]。右隻の馬揃えの場面は『平治物語絵巻』の巻頭から巻末に至る群像をいくつかのまとまりで分節・再構成することで出来上がっている[96]
右隻六扇目中央左、上半身裸の男が持つ朱鞘には「いきすぎたりや、廿三、八まん、ひけはとるまい」と記されている。これは慶長17年(1612年)、江戸で処刑されたかぶき者の頭領大鳥逸兵衛(一兵衛)の鞘の銘「廿五まで 生き過ぎたりや 一兵衛」を模したと言われ、戦乱が終わろうとしている時代に生まれた当時の若者の気持ちを表すとしてしばしば言及されたが、近世史家の杉森哲也は「廿三」とは豊臣秀頼の死没年齢であることを指摘し、黒田日出男はこの場面に描かれているのはかぶき者の喧嘩に見立てた大坂の陣であり、23歳の秀頼と母・淀殿の滅亡であったとしている(朱鞘の男は秀頼、男の上方で倒れた駕籠の中から手を出している女は淀殿、側で破れ傘を持って飛びのいている老後家尼は高台院、朱鞘の男と喧嘩しようとしている男は徳川秀忠とされる)。また、この場面から橋を渡った向こう側(男女の視線が微妙に交差する世界)には戦乱(大坂の陣)の終息とともに訪れた「浮世」を現出している[97]
この屏風の発注者は、黒田によれば高野山光明院に伝来していることや、左隻二扇目下段の豊国踊りの場面に「太」の字(太閤)とともに卍紋がはっきりと描かれていることから、光明院に関係の深い秀吉愛顧の大名蜂須賀家政であり、慶長19年の秀吉十七回忌に際して、自らの隠居屋敷にほど近い中田村豊国神社を創建した際に発注、元和2年頃に完成した屏風を手元に置いたとされる。また黒田は屏風が蜂須賀氏から光明院へ移った時期も想定し、寛永15年12月30日1639年2月2日)に家政が亡くなった後、翌寛永16年に遺骨と共に屏風も光明院へ納められたのではないかと想定している。屏風は明治21年(1888年)に火災に遭った高野山へ再建費用を援助した蜂須賀氏へ移ったとされるが、昭和8年(1933年)に蜂須賀正氏が屏風を競売に出し、落札した徳川義親徳川黎明会に保管、徳川美術館所蔵として現在に至る[* 11][102][103]

福井在住時代 編集

  • 旧金谷屏風 元和末から寛永初年頃
元々、福井の豪商金谷家に伝わっていた紙本・六曲一双の押絵貼屏風(屏風の一扇一扇に一枚ずつ絵を貼ったもの)。「官女観菊図」付属の伝来書によれば、忠直と忠昌の弟松平直政が幼少期に養育してくれた金谷家当主に下賜したものだという。現在は一扇ごと軸装され、12枚のうち10枚が諸家に分蔵されているが、2枚は所在不明。しかし屏風の旧状を写した古写真を基に再現した12枚貼りの屏風が福井市立郷土歴史博物館にある[104][105]
左右の端に龍虎、その間に源氏物語と伊勢物語や、中国の故事人物を隣合わせに描き並べた構成は他に類を見ない。手法を見ても龍虎のような水墨画と、官女観菊図のような土佐派的白描画が、同一筆者による屏風絵の中に、いずれも本格的なものとして共存しているのは異例である[58]。また、その水墨画も、海北派や長谷川派雲谷派の画法を取り入れたあとが見られる。下に右隻一扇目から順に、画題と現在の所蔵先を記す。
  • 「虎図[1]」 墨画 東京国立博物館
  • 「源氏物語・花の宴(朧月夜)図」 着色 所在不明
  • 「源氏物語・野々宮図」(重要美術品) 淡彩 出光美術館
  • 「龐居士図[2]」(重要美術品) 着色 福井県立美術館
  • 「老子出関図[3]」 淡彩 東京国立博物館
  • 「伊勢物語・烏の子図」(重要美術品) 着色 東京国立博物館
  • 「伊勢物語・梓弓図」(重要文化財) 着色 文化庁
  • 「弄玉仙図」(重要文化財) 着色 摘水軒記念文化振興財団寺島文化会館蔵
  • 「羅浮仙図」(重要美術品) 着色 個人蔵
  • 「唐人抓耳図」 着色 所在不明
  • 「官女観菊図[4]」(重要文化財) 淡彩 山種美術館
  • 「雲龍図」 墨画 東京国立博物館
  • 池田屏風(旧樽谷屏風)
岡山藩池田氏(侯爵)に伝わった着色・八曲一隻の腰屏風押貼絵を分割したもの。旧称「樽谷屏風」の名前の由来は不明。大正8年(1919年)の売り立てで分割された[106]。下に一扇目から順に、画題と現在の所蔵先を記す。
  • 「貴人の雪見」 所在不明
  • 「王昭君」 サンフランシスコ・アジア美術館(ブランデージコレクション)
  • 「寂光院」(重要文化財) MOA美術館
  • 「伊勢物語・花の宴」 所在不明
  • 「伊勢物語・梓弓」 所在不明
  • 「伊勢物語・五十三段」 出光美術館
  • 「僧をたずねる武人」 所在不明
  • 「職人尽・傘張りと虚無僧」(重要美術品) 根津美術館
落款印章は無いが、極端に誇張・変形された身体表現を用いて一人一人の個性が巧みに描き分けられており、福井時代初期の又兵衛作だと推定される。図上に書かれた和歌が全て削り取られているが、理由は不明。上野精一旧蔵品[107]
  • 「三十六歌仙図」 紙本著色 22面 福井県立美術館
豊頬長頤と生彩溢れる表情が特徴。勝以の署名と碧勝宮圖の印章があり、そこから制作時期は福井時代前半、旧金谷屏風や人麿・貫之像と同時期と推測される。小林家旧蔵品[108]
  • 「人麿・貫之像[5]」(重要文化財) MOA美術館
  • 「太平記 本性房振力図」 東京国立博物館
  • 「和漢故事説話図(和漢故事人物図巻)」
元は12図を繋げた画巻だが、一図ずつ切り離されて軸装された状態で展示されている。福井県立美術館所蔵は7図が確認されている[109][110]
  • 「平家物語 鵜川の軍図」 福井県立美術館
  • 「平治物語 悪源太雷電となる図」 福井県立美術館
  • 「源氏物語 須磨図」 福井県立美術館
  • 「源氏物語 夕霧図」 福井県立美術館
  • 「源氏物語 浮舟図」 福井県立美術館
  • 「唐土故事図」 福井県立美術館
  • 「布袋と寿老の酒宴」 福井県立美術館
  • 「武者絵」(重要美術品) 紙本着色 ニューオータニ美術館
  • 「花見遊楽図屏風」 四曲一隻 個人蔵
  • 「伊勢物語 鹿と貴人図」 紙本著色 一幅 MOA美術館
  • 「在原業平図」 紙本著色 一幅 出光美術館
  • 「平家物語 通盛小宰相図」 紙本著色 一幅 個人蔵
  • 「維摩図」 紙本著色 一幅 個人蔵

古浄瑠璃絵巻群 編集

元岡山藩家老池田長準が所有していたが、明治27年から28年(1894年 - 1895年)まで日清戦争のため広島大本営に逗留した明治天皇が鑑賞したこの絵巻を気に入ったため、長準が皇室へ献上、尚蔵館へ収められた。小栗判官絵巻が池田屏風・和漢故事説話図と共に池田氏に伝わった経緯は不明で、辻は千姫が注文主で、岡山藩主池田光政に嫁いだ娘の勝姫を慰めるため絵巻を注文し、岡山へ届けさせたとする仮説を立てている[114][115]。これに対して黒田は辻の説明に反論、小栗判官絵巻は津山藩に伝来していたが、岡山県内に流出した所を長準が入手したのではないかと想定している[116]
これらの絵巻には、古浄瑠璃、とりわけ室町時代御伽草子を元とした浄瑠璃を詞書とする共通点があり、「古浄瑠璃絵巻群」と呼ばれる。優れた作品であると同時に、その詞書は物語の古様を伝えるものとして、文学上でも貴重である。特に観る者を圧倒する極彩色の画面や、群像表現に優れる。画風の特徴は一貫しているが、人物の大きさや描法に様々な違いが見られ、複数の画工が関わったことがわかる。しかし、主要な場面を中心に見受けられる巧みな構図や、卓越した画技は、又兵衛自身が指導して仕上げられたことを示している[115][117]
山中常盤物語絵巻・浄瑠璃物語絵巻・堀江物語絵巻は忠直からの注文であったとされ、又兵衛は弟子たちを動員して絵巻群を制作したと考えられている。ただし浄瑠璃物語絵巻・堀江物語絵巻は又兵衛の関与が少ないとの見解もあり、制作時期も忠直配流後とされる[118][119]。これは辻の見解だが、黒田は異論を唱え、浄瑠璃物語絵巻と堀江物語絵巻も忠直配流前に彼の注文を受けて又兵衛を中心とする工房が制作したと考え、御伽草子やそれらを元にした古浄瑠璃を好む忠直の意向をうかがいながら古浄瑠璃絵巻群を制作したと推定している[* 13][122]。小栗判官絵巻・村松物語絵巻・熊野権現縁起絵巻も古浄瑠璃絵巻群に含まれるが、こちらは画風が異なり、又兵衛の流れをくむ絵師が描いたと考えられる[123][124]
黒田は寛永5年(1628年)2月吉日に忠直が配流先の豊後津守で熊野権現縁起絵巻を津守熊野神社へ奉納したことを指摘、又兵衛工房に依頼して絵巻を描かせ神社へ奉納したと仮定した。制作年代の特定も行い、下限を寛永5年2月吉日に特定、上限は同年初頭か前年の寛永4年(1627年)末と推定している。合わせて絵巻群の順番と制作年代も推定、順番は堀江物語絵巻(残欠本)、山中常盤物語絵巻、浄瑠璃物語絵巻、小栗判官絵巻、堀江物語絵巻(堀江巻双紙)、村松物語絵巻、熊野権現縁起絵巻と推測、制作年代の上限は又兵衛が来た元和2年、下限は寛永5年2月吉日に定めている[* 14][129]

江戸在住時代 編集

三十六歌仙画冊などに発揮された奔放な表現は影を潜め、硬直したような人物表現になったが、これは幕府への配慮とされる[130]。明治19年(1886年)、同社の宮司山田衛屋がこの扁額裏に「寛永十七年六月七日 絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」という銘があるのを発見した。これにより「勝以」と又兵衛が同一人物であるのが確かとなり、それまで謎に包まれていた又兵衛の伝記が明らかになる切っ掛けとなった[46][131]
中古三十六歌仙を全て絵画化した珍しい作品。落ち着いて奇を衒うような表現は影を潜めていることから、60歳代の晩年の作品だと推定される。なぜ若宮八幡社宮に伝来したかは不明だが、本作制作時期に近い頃に若美八幡宮を再建する任に当たった福岡藩黒田氏家老・黒田一成(美作)が関与した可能性がある。
  • 「四季耕作図屏風」(重要美術品) 六曲一双 紙本墨画淡彩 出光美術館
  • 瀟湘八景図巻」 一巻 紙本墨画淡彩 出光美術館
  • 「楊貴妃図」 MOA美術館
  • 「伝岩佐又兵衛自画像[11]」(重要文化財) MOA美術館

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 近年、『寛永諸家系図伝』所収の荒木家の家系図に、村重の息子に又兵衛に当たる男子の名が無い事、村重の嫡男荒木村次の長男村直の注釈冒頭に「又兵衛」とあり、もし仮に村直と岩佐又兵衛を別人とすると、ほぼ同時代の一族内に「又兵衛」を名乗る人物が2人いて、更に岩佐又兵衛が系図から抜け落ちていることになり、どちらも却って不自然である事、この荒木家系図を作成し幕府に提出したのは村次の次男で、村直の弟に当たる村常という極めて近い親族であり、この時岩佐又兵衛は存命で同じ江戸で活躍しており誤謬の可能性は極めて低いなどの論拠から、岩佐又兵衛は村重の子ではなく孫で、村重の子村次の長男村直とする研究者もいる(畠山浩一「岩佐又兵衛伝再考 ─血縁関係の再検討を中心に」、『国華』第1364号第114編第11冊所収、2009年)。なお、辻惟雄は翌月の『国華』にてこの論文に批判を加えており(「随想 岩佐又兵衛は村重の子か孫か、母親は? ─畠山氏の論を追考する─」)、畠山は辻の反論は反論になっていないと再批判している(畠山浩一 「岩佐又兵衛と近世初期風俗画に関する研究」東北大学博士論文、2010年)。なお、藤貞幹著『好古日録』(寛政9年刊)で、藤は又兵衛は村重の孫だと記している。
  2. ^ しばしば又兵衛の母は村重の妻・だしとされるが、だしは岩佐姓ではなく、本願寺を実務的な立場から支えた一族・川那部氏の可能性が高い。『寛永諸家系図伝』の村直又兵衛の母は碓井氏とある。村次は『立入左京亮入道隆佐記』などの史料によって明智氏の娘を娶っていたことが知られ、当然岩佐姓ではない。堀直格『扶桑名画伝』では岩佐は乳母の家の姓とし、畠山は土佐派を意識したものとしている(「岩佐又兵衛と荒木一族」、東北大学大学院文学研究科美術史学講座 『美術史学』30号所収、2009年)。
  3. ^ 又兵衛はしばしば絵に押した印章を使い分けており、福井在住期のうち忠直時代には四角の「碧勝宮圖」(白文方印)を使っていたが、忠昌時代になると円い二重輪郭で真ん中に諱の「勝以」を楷文で書いた印(楷文二重円印)を使っている。また忠昌時代と江戸在住期に使用した勝以印にも違いが見られ、前者は楷文二重円印の他に円い二重輪郭で篆文の勝以印(篆文二重円印)も使い、後者は円い一重輪郭で篆文の勝以印(篆文一重円印)を用いた。また円印とセットで別の印も使い、「道」の字を四角の中に入れ、その周りを丸い輪郭で囲んだ小円印は楷文二重円印と、「道蘊」という篆文の四角い小印(朱文方印)は篆文二重円印・篆文一重円印と共に用いた[11]
  4. ^ 廻国道之記は明治31年(1898年)8月と9月に刊行された美術雑誌『国華』の107号・108号に、斎藤謙(栗堂)によって又兵衛の子孫の荒木知栄の所持品として公刊・全文掲載された。明治43年(1910年)に福田源三郎が刊行した『越前人物志』にも廻国道之記原本の1ページが掲載され(原本は現存せず)、鈴木廣之東京大学史料編纂所で発見した廻国道之記の謄写本を昭和59年と60年(1984年1985年)の『美術研究』に掲載した。また美術研究で謄写本を紹介したテキストによると、廻国道之記の前半に「ゑ」と描かれた箇所が5つあることから、又兵衛自筆の挿絵入り旅日記だったことが判明した。内容は『土佐日記』以来の紀行文の体裁を取り文章は流麗な擬古文、『源氏物語』『伊勢物語』など随所に古典文学を引用、又兵衛の文学の素養の高さをうかがわせる[16][17]
  5. ^ 京都滞在で又兵衛はしばしば憐れみを込めた感想を記し、四条河原の若衆踊り見物ではわずかな収入を当てに変わった工夫を凝らし、汗だくで夢中になって演技をする芸能人の姿に自分の生き様を重ね合わせ、「世の中をわたるほどかなしきものはあらじ(世の中を渡るほど悲しいものはない)」と嘆いた。建仁寺近くの埋葬場へ行った際、煙が立ち上るのを見て「思ひやられて悲しかりけり(母とされるだしの辞世の句の末の句)」と口ずさんで涙ぐんだり、豊国神社へ参拝した時は華麗な社殿が朽ち果てた有様を見て、「久しからぬ命のうちにさかへおとろへを見るこそあはれなりけれ」と感慨に耽る、3月5日の惜別で別れの歌を詠み上げられた時には田舎(越前)で老いた自分の境遇への嘆きに転じるなど、又兵衛の心情が至る所で書かれている[18][19]
  6. ^ 東海道での旅でも感想や歌を記し、関宿では客呼び込みが上手くいかず軒の柱にもたれる飯盛女を皮肉った歌(白き物を顔に塗りつつ人止むる女や関の地蔵なるらん)を詠む、四日市宿で「いつの世にいつをよき日の日どりにて四日市場とここをいふらん」と詠む、桑名宿で珍しい魚を買って調理し、海に近い海女の家に借りた宿で食べたこと、七里の渡しを突風の中で船で越えて無事だったことを詠む(船よりも熱田の宮を拝まずば荒き浪風いかでしのがん)、晴れ渡った空に「鏡を掛けたるようにきらきらと見え渡る」薄紅色の富士山に夢中になって眺め感激したことなどを書いている。一方で八橋を見て無様な現状に落胆する、小夜の中山を越えようとして雨風に視界を遮られ、悔しさを込めた歌を詠む(雨に風夕べの雲も立ち覆ひあやなく越ゆるさよの中山)など、期待外れや災難なども日記に書いている[23][24]。なお、廻国道之記には京都から又兵衛に同行した友人の存在が記録されているが、この人物の素性は明らかになっていない[25]
  7. ^ 江戸住まいの晩年に書かれたと推定されるこの手紙には、又兵衛の悩みが愚痴として表れている。宛先は不明だが懇意の大名宛と推定される手紙の内容は、弥五右衛門の内儀に金を騙し取られた1件を解決してくれた感謝のお礼と、瘧を患ったこと、依頼された屏風制作が間に合わなかったことが記され、又兵衛の晩年は苦労の連続であることがうかがえる[31][32][33]
  8. ^ 藤懸は笹川の失脚後も又兵衛否定論者であり続け、昭和9年から昭和16年(1941年)まで東京帝国大学教授を務め、退官後の昭和20年(1945年)に国華の主幹となり、日本浮世絵協会会長・文化財審議会専門委員(後に会長)や東京国立博物館評議員も務め、亡くなるまで美術界の権威であった[66][67]。それにより藤懸の又兵衛否定論の影響が大きくなり、助手の楢崎宗重と共に又兵衛研究をリードした藤懸は、昭和18年(1943年)刊行の『浮世絵の研究 上中下』と昭和24年(1949年)刊行の国華5月号の記事でも否定論を繰り返し、藤懸と楢崎が関与した美術館の又兵衛展覧会では又兵衛風絵巻群は取り上げられなかった[68]。藤懸の権力におもねる姿勢は河上肇から皮肉られ、砂川幸雄や辻惟雄は又兵衛論争が始まる前の藤懸の言動に触れ、大正11年(1922年)の国華の記事では肯定論者だったのに、否定論者に転換して自分の主張を撤回したり矛盾した学説を唱え続ける言動を批判している[69][70]。なお、論客の1人だった春山は昭和6年の発表以後は論争から手を引き、法隆寺金堂壁画や日本絵画史の研究と出版に没頭して余生を送った[71]
  9. ^ 辻が又兵衛を研究した理由は、修士論文のテーマに指導教官だった山根有三から又兵衛を勧められたからであり、藤懸の教え子だった山根は肯定論に傾いていたが、師を憚り主張を控えた代わりに辻を又兵衛研究へと引き入れた[74][75]。絵巻群や落款の有無で分かれる又兵衛(勝以)の作品を比較研究したり、遠碧軒記や廻国道之記など又兵衛関係の資料も研究した辻は昭和45年(1970年)に研究成果をまとめた本『奇想の系譜』を刊行、翌昭和46年(1971年)に藤懸の否定論を批判するまでになった。こうした状況に遭遇した楢崎は同年刊行された国華の7月号で、藤懸から引き継いだ否定論を撤回した[76][77]
  10. ^ 辻は昭和36年(1961年)の学会発表で「山中常盤物語絵巻」を又兵衛作とする一方、舟木本を又兵衛ではなく彼以前の又兵衛前派の作だと主張、昭和45年の著作『奇想の系譜』でもこの見方は変わらなかった。だが平成16年(2004年)の山下裕二との対談、平成18年(2006年)の佐藤康宏との対談で、舟木本が勝以(又兵衛)作との繋がり・連続性が多く見られるとの指摘を受け、舟木本と山中常盤物語絵巻と比較して見た結果、舟木本の左隻第五扇に描かれた口を開けていなないている馬と、山中常盤物語絵巻の巻三に描かれた子供に手綱を引かれて口を開けている馬が似ていることを発見、平成20年(2008年)の著作『岩佐又兵衛』で辻は主張を撤回し舟木本を又兵衛作とした[51][81][82]
  11. ^ なお、美術史家の佐藤康宏は以下のような主張を行っているが、光明院が毛利氏と由来が深いとする宮島新一の全く根拠の無い説に依拠したものとして黒田により厳しく批判された[98]。しかし、この豊国祭礼図が光明院に伝来したという確証はなく、佐藤は平成29年の辻との対談でこの点を指摘している[99]廣海伸彦は、高野山大徳院に存在したと『紀伊国風土記』と『古画備考』が記録する豊国祭礼図こそが現存する作品に該当するのではないかと提言する。そうであるなら佐藤や廣海の解釈にはなお成立の余地があろう。
    〜発注者は装飾の特徴や伝来経緯から松平忠直だと想定できる。徳川一門の忠直が、豊臣氏の祭礼を描かせるのは矛盾しているように思われるが、忠直は幕府に否定的で後に配流された人物でもある。忠義は、霊廟に祀られた秀吉に幕府の創設者徳川家康を仮託し、秀吉の遺言に背いて豊臣家を根絶やしにし豊国神社の破却を命じておきながら、自分の死後は東照大権現として祀らせるという家康が行った矛盾した二番煎じを、徹底したパロディとして表現するのが主眼だった[100][101]。〜
  12. ^ MOA美術館蔵の絵巻は「堀江巻双紙」、それ以外の絵巻は「残欠本」の2種に分かれる。前者は後者より短いことからダイジェスト版と推測されるが、一部別の絵巻から採った場面が見られることから、堀江物語絵巻は堀江巻双紙・残欠本の他に共通の祖本となるもう1本があった可能性が指摘される。残欠本は忠昌治下かそれ以後に、又兵衛の直接の監督無しに弟子が制作を担当、堀江巻双紙は更に下った時代の工房作と推定される[111][112]。黒田は堀江物語絵巻を含む絵巻群は忠直治下に作られたと主張(後述)、残欠本と堀江巻双紙の主人公(若君)の表現の違いに注目、前者は若君が目まぐるしく姿が変化するのに対して、後者は変化が少なくすっきりした表現になっていることを指摘、残欠本はまだ絵巻制作に慣れていない最初期の習作で、堀江巻双紙は残欠本の作り直しだと捉えている[113]
  13. ^ 黒田は辻が絵巻群の注文主の解明をなおざりにしていると批判、注文主を忠直と捉え、5つの観点から忠直の関与なくしては絵巻群が出来ないと主張している(1.絵巻の豪華絢爛な装飾性は忠直の財力と希望による、2.山中常盤物語絵巻以外の作品にある同じ場面の反復・劇的場面に見られるリアルで生々しい表現は忠直が求めた表現、3.特に父母の死と主人公の復讐場面を表現することを求めた、4.堀江物語絵巻の初期作「残欠本」より山中常盤物語絵巻が完成度が高いことに注目、残欠本を試作ないし習作と仮定し、最初に作らせた絵巻が残欠本で次が山中常盤物語絵巻、5.隠居・配流された後の忠直には次々と絵巻注文が出来ないので、絵巻群の大部分は配流された元和9年(1623年)以前に制作された可能性がある)[120]。また不行跡で隠居・配流させられる前の忠直の心理状態を推測した黒田は、叔父かつ舅の江戸幕府2代将軍徳川秀忠や従妹かつ妻で秀忠の娘勝姫への不満が絵巻群制作と結びついていたと考え、山中常盤物語絵巻を除く絵巻群には夫婦の契りと妻の貞節が描かれている点に注目、忠直は出来上がった絵巻群を勝姫と侍女たちに見せて、秀忠に背いて夫である自分の側に立つ(貞節)ことを求めて説得したと推測している(史実では逆に勝姫は秀忠の側に立ち忠直から離れた)[121]
  14. ^ 制作年代の上限の絞り込みは戸田浩之四辻秀紀澤田和人深谷大志賀太郎らが絵巻群の研究で進め、忠直の子孫に当たる津山藩に伝来した山中常盤物語絵巻・浄瑠璃物語絵巻・堀江物語絵巻(残欠本)の詞書・見返し(菊に流水文様)が村松物語絵巻と同じ点、元和4年(1618年)に忠直が家臣の中川右京に与えた稲富流砲術の伝書の見返しにも菊に流水文様が使用されていることから、4つの絵巻群制作年代は元和年間に絞られ、注文主が忠直である可能性が強まった[125]。更に黒田は小栗判官絵巻・堀江物語絵巻(堀江巻双紙)・熊野権現縁起絵巻も忠直が注文したと推測、深谷が津山藩伝来の愛山文庫(津山郷土博物館)から4つの絵巻群の詞書の写本を多数発見したことに触れ、絵巻群も津山藩に伝来していて、小栗判官絵巻もが所有していたが流出して池田長準の手に渡り皇室へ献上されたとする仮説を唱えた[126]。残る堀江巻双紙・熊野権現縁起絵巻も詞書の筆跡が5つの絵巻群と極めて似ていることを発見、筆者は忠直の周辺にいる人物と特定、忠直注文主説を補強した[127]。ちなみに、絵巻群は忠直が配流先の豊後まで持参、亡くなるまで持っていたと黒田は推測、死後は忠直の息子松平光長の許に運ばれ、子孫である津山藩が保管し続けたとしている[128]

出典 編集

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参考文献 編集

図録
小説

関連項目 編集