斯波貞吉

日本の衆議院議員

斯波 貞吉(しば ていきち、明治2年8月17日[1]1869年9月22日) - 昭和14年(1939年10月14日[2])は、日本の衆議院議員憲政会立憲民政党)、ジャーナリスト

斯波貞吉

経歴 編集

越前国福井に、藩士斯波有造の長男として生まれる。1891年(明治24年)にオックスフォード大学を卒業した後、東京帝国大学文科大学英文科に入り、1896年(明治29年)にその選科を卒業した。盛岡中学校高輪中学校で教鞭をとり、さらに仏教大学(現在の龍谷大学)の教授を務めた。

1899年(明治32年)、黒岩涙香に招かれて「萬朝報」に入社した。当初は英文記者であったが、やがて編集局長、さらに主筆を務めた。特に普選運動には積極的に取り組んだ[3]

1925年大正14年)6月に「東京大勢新聞」の社長兼主筆に就任したが、12月に辞して、衆議院補欠選挙に出馬し、当選した[4]。以後、当選回数は6回を数えた。墓所は多磨霊園(10-1-15-16)。

著書 編集

  • 『国家的社会論』(冨山房、1892年)
  • 『実用英語対話』(言文社、1903年)
  • 『日本を甦らせた勇三の腕』(忠誠堂、1930年)

家族 編集

脚注 編集

  1. ^ a b 『大衆人事録』
  2. ^ 『官報』第3845号、昭和14年10月28日
  3. ^ 永井柳太郎編『識者の見たる普通選挙』、自由活版所、1921年。
  4. ^ 『官報』第4002号、大正14年12月25日
  5. ^ 十文字学園女子大学. “沿革” (日本語). 2016年8月2日閲覧。

参考文献 編集

  • 大石末吉『普選の勝者 代議士月旦』東京平和新報社出版部、1928年。 
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。