日本歌謡大賞』(にほんかようたいしょう)は、1970年から1993年まで開催された日本音楽に関する賞である。

日本歌謡大賞
THE JAPAN MUSIC AWARDS
会場に多く使われている日本武道館
受賞対象優れた楽曲・歌手
会場日本武道館(大半)
日本の旗 日本
主催放送音楽プロデューサー連盟
初回1970年
最新回1993年
輝け!日本歌謡大賞(フジテレビ制作)
ジャンル 音楽番組 / 特別番組
オープニング 日本歌謡大賞讃歌(保富康午作詞・広瀬健次郎作曲・前田憲男編曲・東京混声合唱団コーラス)
エンディング その年の大賞受賞曲&
日本歌謡大賞讃歌
製作
制作 フジテレビ
放送
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1972年11月16日 - 1993年11月16日
放送枠火曜ワイドスペシャル
回数7[注 1]

特記事項:
詳細に関しては#歴代司会者と担当テレビ局を参照
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輝け!日本歌謡大賞(東京12チャンネル→テレビ東京制作)
ジャンル 音楽番組 / 特別番組
オープニング 日本歌謡大賞讃歌(保富康午作詞・広瀬健次郎作曲・前田憲男編曲・東京混声合唱団コーラス)
エンディング その年の大賞受賞曲&
日本歌謡大賞讃歌
製作
制作 東京12チャンネル→テレビ東京
放送
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1971年11月11日 - 1992年11月17日
放送枠火曜ゴールデンワイド(第23回)
回数6

特記事項:
詳細に関しては#歴代司会者と担当テレビ局を参照
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輝け!日本歌謡大賞(日本テレビ制作)
ジャンル 音楽番組 / 特別番組
オープニング 日本歌謡大賞讃歌(保富康午作詞・広瀬健次郎作曲・前田憲男編曲・東京混声合唱団コーラス)
エンディング その年の大賞受賞曲&
日本歌謡大賞讃歌
製作
制作 日本テレビ
放送
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1973年11月20日 - 1990年11月29日
放送枠木曜スペシャル
回数5

特記事項:
詳細に関しては#歴代司会者と担当テレビ局を参照
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輝け!日本歌謡大賞(日本教育テレビ→全国朝日放送制作)
ジャンル 音楽番組 / 特別番組
オープニング 日本歌謡大賞讃歌(保富康午作詞・広瀬健次郎作曲・前田憲男編曲・東京混声合唱団コーラス)
エンディング その年の大賞受賞曲&
日本歌謡大賞讃歌
製作
制作 日本教育テレビ→全国朝日放送
放送
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1974年11月26日 - 1991年11月29日
放送枠水曜スペシャル(第13回まで)
新・水曜スペシャル(第17回)
回数5

特記事項:
詳細に関しては#歴代司会者と担当テレビ局を参照
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輝け!日本歌謡大賞(ニッポン放送制作)
放送局 ニッポン放送
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輝け!日本歌謡大賞(文化放送制作)
放送局 文化放送
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輝け!日本歌謡大賞(アール・エフ・ラジオ日本制作)
放送局 アール・エフ・ラジオ日本
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輝け!日本歌謡大賞(FM東京制作)
放送局 TOKYO FM
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略称は「歌謡大賞」。主催はTBS以外の放送局8局(下記参照)が結成した「放送音楽プロデューサー連盟」。毎年フジテレビ日本テレビテレビ朝日テレビ東京ニッポン放送文化放送RFラジオ日本エフエム東京が協力制作し、テレビ中継は参加4局が持ち回りで担当した。

番組名は『輝け!日本歌謡大賞』(かがやけ にほんかようたいしょう)[注 2]

概要 編集

TBSテレビ1969年大晦日に『日本レコード大賞』授賞式を生放送し、高い視聴率を得るようになった。これを見たTBS以外の他局は制作放映権の各局持ち回りを提案するも、TBSから固辞されたため、"打倒レコード大賞"を目標にして集結し、1970年7月4日に「放送音楽プロデューサー連盟」を結成、2日後に『日本歌謡大賞』を制定した。

第1回授賞式は1970年11月9日に開催されるもテレビ中継されず、東京ヒルトンホテル真珠の間で『放送音楽プロデューサー連盟懇親会 日本歌謡大賞受賞パーティー』が開催された。その模様はVTRに収録され、総集編や名場面などの映像素材に用いられている。また、同日放送の『NTV紅白歌のベストテン』内で表彰式を行い、受賞者が出演し歌唱した。司会は第1回から3回までは前田武彦が担当、第4回から終了までは高島忠夫が担当した。

1971年の第2回から全国ネットで放送されることとなったが、放送枠が確保されずに当日の生中継ではなく後日録画放送の地域も散見された[注 3]1975年の第6回までは通常番組を休止して放送し、1976年の第7回から日本テレビは『木曜スペシャル』、フジテレビは『火曜ワイドスペシャル』枠で、テレビ朝日は1982年の第13回まで『水曜スペシャル』、1986年の第17回は『新・水曜スペシャル』、1991年第22回は金曜19:30 - 21:54[注 4]で、東京12チャンネルは通常番組を休止して、1992年第23回は『火曜ゴールデンワイド』(同『火ワイ』)枠でそれぞれ放送していた。なお1979年の第10回・東京12チャンネル(当時)制作回から音声がステレオ化され[1]、また、1992年の第23回・テレビ東京制作回はクリアビジョン放送を実施した。

1988年の第19回は昭和天皇のご容態を配慮して開催せず、担当予定のフジテレビが総集編を放送した。翌89年の第20回から放送時間が3時間に拡大、ただし局の都合で放送時間が2時間半になることもあった。これ以降は歌手側も賞を辞退する事例が頻発し、番組視聴率も低下する。

1994年4月26日に主催者の放送音楽プロデューサー連盟は総会で『日本歌謡大賞』の開催取り止めを正式決定し[2]、23年間の歴史に幕を下ろした。当時の日本歌謡大賞運営委員長の吉岡正敏(日本テレビプロデューサー)によると「歌謡という言葉で、一年を振り返る音楽を捕らえることの限界を認めた」という[3]

番組オープニングとエンディングには、保富康午作詞・広瀬健次郎作曲・前田憲男編曲のテーマソング「日本歌謡大賞讃歌」が東京混声合唱団のコーラスで放送されていた。

審査への批判 編集

1977年7月9日放送の『第8回日本歌謡大賞新人祭り』(日本テレビで放送)において、審査員投票の結果が放送前に外部に漏れ、1977年7月7日付の『スポーツ報知』で取り上げられた。投票結果とレコード売上等の実績との乖離が著しいことが疑問視され、投票権を持つのが放送局関係者であることから、放送局傍系の音楽出版社が楽曲の権利を持つ歌手が優遇されているのではないかという疑惑が生じた[4][5]。放送当日に再投票を行い、入賞を上位10組から31組全員に、番組内で歌う歌手を10組から18組に拡大することで対応した[6]

各賞 編集

各賞の選考は後述される放送音楽プロデューサー連盟加盟在京テレビ・ラジオ8社と準会員(NNSFNSANNTXNNRNJFN・および独立U協加盟各局)の投票で放送音楽賞・放送音楽新人賞が決定され、最終審査で大賞をはじめとする各賞が決定される。

「日本歌謡大賞」
その年を通じて、『最も放送音楽に貢献した楽曲』に贈られる。そのため、賞の授与対象は対象曲を歌唱した歌手に限らず作詞・作曲・編曲者・所属プロダクション・所属レコード会社が対象になる。放送音楽賞・放送音楽プロデューサー連盟賞・優秀放送音楽新人賞・放送音楽新人賞・最優秀放送音楽賞(第14・15回を除く)受賞者から1組の1曲を選出する。
「最優秀放送音楽賞」
日本レコード大賞における最優秀歌唱賞に相当し1983年以降、放送音楽賞受賞者の中から、その年に最も顕著な活躍をした歌手に対して、1組が選出される。連盟賞、大賞に並び三賞と称される。
「放送音楽プロデューサー連盟賞」
1982年まで、放送音楽賞、放送音楽新人賞の候補となった全員を表彰する。
1983年以降、その年の活躍が顕著な歌手に対して、放送音楽賞受賞者から2組を選出する。
「放送音楽賞」
日本レコード大賞における優秀作品賞(旧・金賞・ゴールド・ディスク賞)に相当する。
1982年まで、6組を選出し、同時に大賞候補とする。
1983年以降、原則13組を選出し、連盟賞、最優秀放送音楽賞、日本歌謡大賞の候補とする。
「放送音楽特別連盟賞」
上の「放送音楽賞」を5年連続受賞した歌手に授与される。
「優秀放送音楽新人賞」
日本レコード大賞における最優秀新人賞にあたり、第14回以降は放送音楽新人賞の中から2組を選出し表彰、同時に大賞候補者としていた。
「放送音楽新人賞」
日本レコード大賞における新人賞に相当し、前年10月1日から当年9月30日にデビューし放送音楽に貢献しその活躍・将来性が特に顕著な歌手に贈られる。第13回までは新人賞候補の中から原則として2組を選出し、同時に大賞候補者としていた。
また7月には赤坂プリンスホテルなどの宴会場で「日本歌謡大賞新人祭り」として上半期優秀新人を選出するも、1984年の第15回で廃止している。
「放送音楽特別賞」
「放送音楽特別功労賞」
長年にわたる活動を通して、大衆に愛される数多くの名曲を作り歌謡曲の社会的地位を向上させ、放送音楽の発展に貢献した人に贈られる。
「特別功労賞」
「特別栄誉賞」
「最優秀新人賞」
「新人賞」
「特別賞」
「放送音楽新人部門連盟賞」
「放送音楽部門連盟賞」

発表方法 編集

受賞者と受賞曲目を司会を読み上げるのが通例であった。第4回では受賞曲の前奏部で読み上げ、第8回は受賞者の顔写真をスクリーンへ投影するなど趣向を凝らした発表もあった。

歴代受賞一覧 編集

大賞 編集

年(回) 受賞歌手 受賞曲
1970年(第1回) 藤圭子 圭子の夢は夜ひらく
1971年(第2回) 尾崎紀世彦[注 5] また逢う日まで
1972年(第3回) 小柳ルミ子 瀬戸の花嫁
1973年(第4回) 沢田研二 危険なふたり
1974年(第5回) 森進一[注 5] 襟裳岬
1975年(第6回) 布施明[注 5] シクラメンのかほり
1976年(第7回) 都はるみ[注 5] 北の宿から
1977年(第8回) 沢田研二[注 5] 勝手にしやがれ
1978年(第9回) ピンク・レディー[注 6] サウスポー
1979年(第10回) 西城秀樹 YOUNG MAN (Y.M.C.A.)
1980年(第11回) 八代亜紀[注 5] 雨の慕情
1981年(第12回) 寺尾聰[注 5] ルビーの指環
1982年(第13回) 岩崎宏美 聖母たちのララバイ
1983年(第14回) 田原俊彦 さらば‥夏
1984年(第15回) 五木ひろし[注 5] 長良川艶歌
1985年(第16回) 近藤真彦 大将
1986年(第17回) 中森明菜[注 6] Fin
1987年(第18回) 近藤真彦[注 6] 泣いてみりゃいいじゃん
1988年(第19回) 開催中止
1989年(第20回) 光GENJI 太陽がいっぱい
1990年(第21回) 堀内孝雄[注 5] 恋唄綴り
1991年(第22回) とんねるず 情けねえ
1992年(第23回) 香西かおり 花挽歌
1993年(第24回) 堀内孝雄 影法師

優秀放送音楽新人賞 編集

年(回) 受賞歌手 受賞曲
1970年(第1回) 辺見マリ 経験
野村真樹 一度だけなら
1971年(第2回) 小柳ルミ子 わたしの城下町
南沙織 17才
1972年(第3回) 森昌子 せんせい
三善英史
1973年(第4回) アグネス・チャン 草原の輝き
桜田淳子 わたしの青い鳥
1974年(第5回) 中条きよし うそ
西川峰子 あなたにあげる
1975年(第6回) 細川たかし 心のこり
岩崎宏美 ロマンス
1976年(第7回) 内藤やす子 想い出ぼろぼろ
新沼謙治 嫁に来ないか
1977年(第8回) 清水健太郎 失恋レストラン
高田みづえ 硝子坂
1978年(第9回) 渡辺真知子 ブルー
石野真子 失恋記念日
1979年(第10回) 桑江知子 私のハートはストップモーション
倉田まり子 HOW! ワンダフル
1980年(第11回) 田原俊彦 ハッとして!Good
松田聖子 青い珊瑚礁
1981年(第12回) 近藤真彦 ギンギラギンにさりげなく
山川豊 函館本線
1982年(第13回) シブがき隊 100%…SOかもね!
松本伊代 センチメンタル・ジャーニー
1983年(第14回) THE GOOD-BYE 気まぐれONE WAY BOY
岩井小百合 恋・あなた・し・だ・い!
1984年(第15回) 吉川晃司 ラ・ヴィアンローズ
岡田有希子 -Dreaming Girl- 恋、はじめまして
1985年(第16回) 本田美奈子 Temptation(誘惑)
芳本美代子 雨のハイスクール
1986年(第17回) 少年隊 仮面舞踏会
真璃子 夢飛行
1987年(第18回) 酒井法子 ノ・レ・な・いTeen-age
立花理佐 キミはどんとくらい
1988年(第19回) 開催中止
1989年(第20回) マルシア ふりむけばヨコハマ
田村英里子 真剣
1990年(第21回) 忍者 お祭り忍者
晴山さおり 一円玉の旅がらす
1991年(第22回) SMAP Can't Stop!! -LOVING-
中嶋美智代 とても小さな物語
1992年(第23回) 田川寿美 女…ひとり旅
永井みゆき 大阪すずめ
1993年(第24回) シュー・ピンセイ中国語版 パッシング・ラヴ

歴代司会者と担当テレビ局 編集

放送日 男性司会者 女性司会者 担当局 放送枠 視聴率 会場
第1回 1970年11月9日 前田武彦 なし テレビ放送なし - 東京ヒルトンホテル
第2回 1971年11月11日 東京12チャンネル[注 7] なし 京王プラザホテル
第3回 1972年11月16日 吉永小百合 フジテレビ 新宿コマ劇場
第4回 1973年11月20日 高島忠夫 寿美花代 日本テレビ[注 8] 47.4% 日本武道館
第5回 1974年11月26日 黒柳徹子 NETテレビ[注 9] 45.3%
第6回 1975年11月24日 和泉雅子 東京12チャンネル 19.7% 中野サンプラザ
第7回 1976年11月16日 浜木綿子 フジテレビ[注 10] ワイスペ 41.8%
第8回 1977年11月17日 寿美花代 日本テレビ 木スペ 46.3% 日本武道館
第9回 1978年11月15日 水沢アキ テレビ朝日 水スペ 30.9%
第10回 1979年11月23日 大場久美子 東京12チャンネル[注 11][7][8] なし NHKホール
第11回 1980年11月18日 星野知子 フジテレビ ワイスペ 40.1% 日本武道館
第12回 1981年11月12日 日本テレビ 木スペ 34.7%
第13回 1982年11月17日 テレビ朝日 水スペ 29.5%
第14回 1983年11月11日 檀ふみ テレビ東京[注 12] なし 21.9%
第15回 1984年11月20日 星野知子 フジテレビ ワイスペ
第16回 1985年11月28日[注 13] 日本テレビ 木スペ
第17回 1986年11月19日 テレビ朝日 新水スペ
第18回 1987年11月13日[注 14] テレビ東京[注 15] なし
第19回 開催中止[注 16]
第20回 1989年11月21日 高島忠夫 山口美江 フジテレビ ワイスペ 日本武道館
第21回 1990年11月29日 東ちづる 日本テレビ 木スペ
第22回 1991年11月29日 テレビ朝日 なし
第23回 1992年11月17日 テレビ東京 火ワイ
第24回 1993年11月16日 森口博子 フジテレビ ワイスペ 東京ベイNKホール

※視聴率は関東地区、ビデオリサーチ調べ。

補助アナウンサー 編集

演奏 編集

テレビ局 演奏
テレビ東京 豊岡豊とスイングフェイス、フラワーアンサンブル
フジテレビ ダン池田とニューブリード三原綱木とニューブリード、日色ストリング・アンサンブル、ポップスヴィル・ミュージック
日本テレビ 宮間利之とニューハード、高橋達也と東京ユニオン、新音楽協会、庄崎正訓とガッシュアウト
テレビ朝日 宮間利之とニューハード、豊岡豊とスイングフェイス、原信夫とシャープス&フラッツ

ラジオ中継 編集

  • 文化放送は、平日18時と19時台枠の『大学受験ラジオ講座』や『百万人の英語』終了直後からオフ番組の『ザ・マンザイクイズ』や『ライオンズナイター』は休止や短縮して途中飛び乗りで、初期の梶原しげるに続き竹内靖夫が会場から生中継している。
    • なお『ライオンズナイター』の開始以前は18:30からのワイド番組を短縮放送や歌謡大賞の中継終了後からの2部構成にするなどして放送していた。
    • その影響で『大学受験ラジオ講座』や『百万人の英語』は後日に振り替えられて放送されていた[注 17]
  • ニッポン放送は、平日開催の場合は会場から波多江孝文らが生中継し、NRNネット加盟局はニッポン放送から19時以降に裏送りされるナイターオフのワイド番組を通常通りに放送[注 18]している。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ (中止となった1988年第19回大会の代替の総集編も含む)
  2. ^ 時期は不明だが、年や担当局によって「!」が1つの年や2つの年があり、同時に民放では数少ないテレビラジオの同時放送番組でもある
  3. ^ 特に東京12チャンネル1981年まで系列局が無かったため、75年と79年は同局の番組を配信する地方各局に配慮して祝日の夕刻に開催されたこともあり、同日夜に『おめでとう日本歌謡大賞』を放送していた。
  4. ^ 当時19:00開始枠の『ドラえもん』は年末年始と改編期以外は休止せず、19:30に放送開始して続く金曜20時の『ミュージックステーション』枠を用いている。
  5. ^ a b c d e f g h i 歌手・楽曲とも同年の『日本レコード大賞』も受賞。
  6. ^ a b c 歌手のみ同年の『日本レコード大賞』(別楽曲でエントリー)も受賞。
  7. ^ 近畿広域圏では毎日放送(MBS)で後半の1時間のみ放送された。
  8. ^ 広島県では広島ホームテレビ(NETテレビ系列)で20時飛び乗りにより後半の1時間のみ放送された。
  9. ^ 近畿広域圏では毎日放送(MBS)で放送された。
  10. ^ 山口県では、当時TBS系とフジテレビ系のクロスネット局だったテレビ山口で同時ネットされた。
  11. ^ 同番組初の非ゴールデンタイムでの生放送。東京12チャンネルは当時全国ネットワークを持っておらず、全国的に同時ネットにて多くの視聴者に見てもらうことを考慮し、祝日でかつ放送時間を主要系列局が全国ネット番組を持っていない時間帯を設定。同日の16:05(東京12チャンネルは、15:45) - 17:50にて、フジテレビ系列(関西テレビ(近畿広域圏 ステレオ)、東海テレビ(中京広域圏 ステレオ)、北海道文化放送(北海道)、テレビ西日本(福岡))、日本テレビ系列(広島テレビ)や、当時のクロスネット局(NST新潟総合テレビテレビ山口)等を通じて同時に生放送された。
  12. ^ テレビ大阪テレビ愛知開局に伴い、テレビ東京での「日本歌謡大賞」では初のゴールデンタイム放送。テレビ東京系列の無い地域では、遅れネットで放送された。
  13. ^ 新人賞の発表を同年11月21日に行い、大賞の発表を11月28日に行う2部体制だった。
  14. ^ 新人賞の発表を同年10月30日に行い、大賞の発表を11月13日に行う2部体制だった。
  15. ^ 広島県では、広島テレビ(日本テレビ系列)が1日遅れで放送した。
  16. ^ 同年11月22日に高島・山口両名司会による総集編をフジテレビで代わりに放送した。
  17. ^ 文化放送以外のネット局は裏送りで通常の時間に放送されていた。
  18. ^ 1979年10月から1990年3月まで毎ナイターオフに放送の『NISSANナマ生ステーション』や後継番組は、ニッポン放送はCMのみ流して休止している。

出典 編集

  1. ^ 朝日新聞 1979年11月23日 東京版 朝刊 P.24 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)
  2. ^ 「『歌謡大賞』を廃止」『朝日新聞』1994年4月27日付東京朝刊、29頁。
  3. ^ 「歌番組衰退で消える歌謡大賞 『ライバル』レコード大賞は継続」『朝日新聞』1994年5月31日付東京夕刊、11頁。
  4. ^ 吉野健三『歌謡曲 流行らせのメカニズム』晩聲社 (ヤゲンブラ選書) 、1978年、46-51頁。
  5. ^ 「『日本歌謡大賞・新人祭り』の選考結果が事前に漏れた怪!!」『サンデー毎日』1977年7月24日号、35頁。
  6. ^ 『歌謡曲 流行らせのメカニズム』52頁。
  7. ^ 朝日新聞 1979年11月23日 大阪版 朝刊 P.24 テレビ欄、同日名古屋版 朝刊 P.24 テレビ欄、同日北海道版 朝刊 P.24 テレビ欄、及び同日西部版 朝刊 P.20 テレビ欄(いずれも、朝日新聞クロスサーチにて閲覧)
  8. ^ 新潟日報 1979年11月23日 朝刊 テレビ欄

外部リンク 編集