日産・R90CPは、1990年全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)およびル・マン24時間レース用に日産自動車が製作したグループCカー。

日産・R90CP
カテゴリー グループC
コンストラクター 日産
デザイナー 水野和敏
先代 日産・R89C
後継 日産・R91CP
主要諸元
シャシー カーボンコンポジット モノコック
サスペンション(前) ダブルウィッシュボーン
サスペンション(後) ダブルウィッシュボーン
全長 4,800 mm
全幅 1,990 mm
全高 1,100 mm
トレッド 前:1,600 mm / 後:1,560 mm
ホイールベース 2,794 mm
エンジン VRH35Z 3,496 cc V8 2Turbo ミッドシップ
トランスミッション ヒューランドVGC 5速+リバース
重量 900 kg以上
主要成績
チーム 日本の旗 NISMO
ドライバー
出走時期 1990 - 1991
コンストラクターズタイトル 1
ドライバーズタイトル 1
初戦 1990年富士500km
初勝利 1990年富士500マイル
最終戦 1991年鈴鹿1000km
出走優勝表彰台ポールFラップ
93721
テンプレートを表示

概要 編集

1987年から日産のグループCカー活動は、林義正がスポーツエンジン開発責任者兼任の形で指揮を執ることになった。林によりシャシーの開発を任された水野和敏は、ローラと共同でR89Cを開発した。しかし、ローラの古拙なマシン開発手法に失望し、グループCマシンの自製を決意。これを1990年からの監督就任の条件として本社上層部の許可を取り付け、開発されたのがR90CPである。ただし、1990年シーズンは日産グループ全体としてローラ製シャシーを使用してグループCカー活動を行うことが既に決定していたので、シャシーのみR89Cのものを使用した。

空力開発はニッサン・パフォーマンス・テクノロジー(NPTI)からNISMOに移籍した鈴鹿美隆が行った。

エンジンは前年のVRH35の進化版、3.5リットルV型8気筒ツインターボのVRH35Zを搭載。予選用の高過給設定では1,200馬力に達したという。

タイヤは引き続きダンロップで、当初からフロント17インチ、リア19インチタイヤ(内径)を使用した。

このシーズンは英国で製作されたマシンをR90CK、日本で製作されたマシンをR90CPと名づけた。R90CPの「P」は製作された追浜(Oppama)のPである。

戦績 編集

 
日産・VRH35Zエンジン

1990年 編集

1990年シーズン、日産はJSPCとWSPC・鈴鹿に23号車(ドライバー 星野一義鈴木利男)、24号車(ドライバー 長谷見昌弘アンデルス・オロフソン)の2台を、ル・マンには23号車(ドライバー 星野・長谷見・鈴木利男)1台をエントリーさせた。

R90CPは1990年のJSPC開幕戦、富士500kmでデビューした。空力性能の比較のため23号車はR89Cのカウルを装備していた。レースはこちらもこのレースがデビューのトヨタ・90C-Vがポール・トゥ・ウィンを決め、予選2位の24号車が2位に入り予選4位スタートの23号車はレース序盤のスピンが響き4位に終わった。

次のレースはWSPC開幕戦鈴鹿で、23号車に搭乗予定の鈴木利男がテストで負傷したため、アンドリュー・ギルバート=スコットが星野とペアを組んだ。このレースからブレーキディスクがカーボン化された。空力性能の比較のため24号車はR89Cのカウルを装備して登場した。レースは予選5位スタートの23号車が、7位走行中の46周目に後続のマシンに追突された時にサスペンションを痛め、これが原因で74周目にスピンしリタイア。24号車は予選9位から着実に走り終盤ジャガー、トヨタの後退もあり2台のザウバーに次ぐ3位表彰台を獲得した。

JSPC第2戦・富士1000kmから2台ともR90CP用カウルを用いるようになった。このレースはル・マン24時間の前哨戦とされていたがレースは雨で中止になった。

そのル・マン24時間レースでは、ジャガーとともにこの年の優勝候補と目されていた日産はプライベーターも含め大量7台(Tカーを含めると9台)をエントリーさせた。R90CPもTカーを含む2台がル・マンに登場した。予選では長谷見が3:33.17を記録して3位の好位置につけた。決勝でも小さなマシントラブルに見舞われながらも当時日本車・日本人ドライバー最高の5位に入賞した。

ル・マンからの凱旋レースとなったJSPC第3戦富士500マイルでは24号車がポールポジションを獲得。23号車は予選4位につけた。決勝ではトップを走っていた23号車が1回目のピットストップでエンジンの再始動に失敗し[1]最下位まで後退。24号車も32週目にタイヤがバーストしてタイムロス。レースは、替わってトップに立ったトヨタ36号車を24号車が追う展開となる。36号車と24号車の同一周回でのトップ争いは延々100周以上も続きこのまま36号車が勝ち、トヨタの連勝が濃厚かと思われた158周目、36号車は突然のエンジントラブルでストップ。24号車が179周を走り切り優勝を決めた。23号車も最下位から挽回し3位を獲得した。

JSPC第4戦鈴鹿1000kmは、R90CPの実力が十二分に発揮されたレースとなった。このレースから23号車のみタイヤをダンロップからブリヂストンに変更した。その23号車は予選3位からスタートしトップに立った2回目のピットストップ後ペースを上げ独走態勢に入った。ライバルチームはこれを無謀な飛び出しと見ていたが、23号車はそのまま走り切って優勝してしまった。予選4位スタートの24号車は途中電気系トラブルによりマシンがコース上に止まってしまうトラブルがあり7位に終わった。トラストの国政久郎テクニカル・アドバイザーは「ニッサンより速いペースで行くマシンがあっても、そのマシンはゴールできませんよ。ニッサンはそれほどの燃費とスピードを達成しているんです」と語り[2]R90CPが最速マシンの座に就いたとの見方を示した。

JSPC第5戦・菅生500kmでは予選2位スタートの24号車が優勝。予選4位スタートの23号車は第3戦と同じくピットストップでのエンジン再始動に失敗し[3]4位に終わった。

JSPC最終戦・富士1000kmは時折雨が降る不安定な天候の中行われた。前戦終了時点でポイントリーダーの24号車の長谷見・オロフソン組は59ポイント。23号車の星野・鈴木組が52ポイントで追う展開。星野はグループA全日本F3000との三冠を狙っての最終戦である。星野・鈴木組の乗る23号車は予選2位スタートから決勝でも2位に入賞。ポイントを67にまで伸ばした。24号車は107周目にコースアウトしトップから10周遅れとなりタイトル獲得は絶望的な状況になったと思われたが、その後上位陣が脱落し5位にまで順位を戻すことに成功。こちらもシーズン通算67ポイントとなったが優勝回数の差で長谷見昌弘がドライバーズタイトルを獲得。国産マシンに乗る初のJSPC王者となった。

タイサンの千葉泰常はシーズン終了後、1990年のJSPCシリーズを振り返って「一番驚くのは国産の、それもニッサンの完成度が非常に早く高まったということ」、「鈴鹿1000kmでニッサンの燃費が持ったというのは驚異」、「クルマだけでなく、総合力でニッサンさんの詰めが非常に良かった」と語った。[4]

1991年 編集

シーズン初頭にデイトナ24時間レースへの参戦が予定されていたが、これは湾岸戦争の影響により直前にキャンセルされた。

日産は1991年シーズン用に完全自社製のR91CPを登場させたがJSPC第1戦富士500kmには23号車のみR91CPを使用。前年度チャンピオンの1号車(長谷見・オロフソン組)はR91CPのパーツを組み込んだR90CPを使用した。タイヤはこの年からブリヂストンに統一された。予選3位からレースをスタートした1号車は23号車とトップを争い69周目にはトップに立つが、2回目のピットストップにオロフソンがに規定周回数より1周少ない周回数で入ってしまい、もう1周走りなおすことになり大幅にタイムロス。レース終盤には燃料系統にトラブルが出て9位に終わった。

JSPC第2戦から1号車もR91CPを使用することになったが、第3戦でマシンを大破させてしまい、第4戦鈴鹿1000kmで1号車は再びR91CPのパーツを組み込んだR90CPを走らせることになった。予選5位からスタートしトップから4周遅れながら3位に入った。

脚注 編集

  1. ^ 原因は燃料系のベーパーロックだという
  2. ^ Racing On No.83』 三栄書房、1990年、p.71。
  3. ^ 燃料系を消火器で冷やして再始動した
  4. ^ 『Racing On』No.086 武集書房、1990年、p.43。

参考書籍 編集

  • 「HIGH ANGLE 33」 『Racing On No.84』 三栄書房、1990年。
  • 「徹底解析NISSAN R92CP」 『Racing On』No.136 三栄書房、1993年。
  • 「ニッサンの黄金期を生んだ"Cカー理論"」 『Racing On 特別編集 Cカーの時代[総集編]』 三栄書房、2006年。
  • 「日産R92CP」 『モーターファン特別編集 レーシングカーのテクノロジー』 三栄書房、2010年。

関連項目 編集