有家町

日本の長崎県南高来郡にあった町

有家町(ありえちょう)は、長崎県島原半島にあった南高来郡に属した。

ありえちょう
有家町
鮎帰りの滝
有家町旗
有家町旗
有家町章
有家町章
有家町旗 有家町章1965年9月30日制定
廃止日 2006年3月31日
廃止理由 新設合併
加津佐町口之津町南有馬町北有馬町西有家町有家町布津町深江町南島原市
現在の自治体 南島原市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 九州地方
都道府県 長崎県
南高来郡
市町村コード 42374-2
面積 23.34 km2
総人口 8,847
国勢調査、2005年)
隣接自治体 深江町布津町西有家町雲仙市
町の木 サクラ
町の花 ツツジ
有家町役場
所在地 859-2202
長崎県南高来郡有家町山川58番地
南島原市有家庁舎(旧有家町役場)
外部リンク 有家町(アーカイブ版)
座標 北緯32度39分57秒 東経130度18分18秒 / 北緯32.66572度 東経130.30511度 / 32.66572; 130.30511座標: 北緯32度39分57秒 東経130度18分18秒 / 北緯32.66572度 東経130.30511度 / 32.66572; 130.30511
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2006年平成18年)3月31日、周辺7町と合併し南島原市となり消滅した。

地理 編集

島原半島の南側に位置し、島原湾に面する。

隣接市町村 編集

歴史 編集

江戸時代の初め頃までは、後の西有家町域とあわせて有家村を成していた[1]。『有馬原城兵乱記』などによれば、1637年寛永14年)に起こった島原の乱では村民全員が参加したが、全て討死し無人の村となったとされる。現在の町民はその後の高力忠房の復興政策により、幕府領の小豆島や九州各藩から移住してきた人々の子孫であると云われる[1]

有家村は1652年承応元年)に有田村[2]・隈田村[3]・町村[4]の3村に分かれたが、1872年明治5年)に再び有家村として1村に統合された[1]。その後村内を東部と西部に分け、1879年(明治12年)に東有家村・西有家村として正式に分村された。

近現代 編集

地域 編集

地名 編集

を行政区域とする。大字は設置していない。旧有家町・旧堂崎村時代は名の名称を十干に置き換えて表記していたが、1956年の合併以降は十干表記を廃止して本来の名の名称を表記し、さらに末尾の「名」の文字が削除された。

以下()内は旧町村時代の名および十干を表す。

旧有家町(東有家村)
  • 中須川(甲 / 中須川名)
  • 小川(乙 / 小川名)[6]
  • 久保(丙 / 久保名)
  • 山川(丁 / 山川名)
  • 尾上(戊 / 尾上名)[7]
  • 蒲河(己 / 蒲河名)[8]
堂崎村
  • 石田(甲 / 石田名)
  • 大苑(乙 / 大苑名)
  • 原尾(丙 / 原尾名)

行政 編集

教育 編集

中学校 編集

町立

小学校 編集

町立

交通 編集

鉄道 編集

島原鉄道線の同区間は合併後の2008年平成20年)4月1日に廃止されている。

バス路線 編集

一般路線バス 編集

道路 編集

一般国道 編集

産業 編集

  • 特産品:島原手延べ素麺

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 編集

  • 俵石展望所
  • セミナリヨ
  • キリシタン史跡公園
  • 鮎帰りの滝
  • 羅漢槙
  • ありえ浜んこら祭り:8月

参考文献 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c 角川日本地名大辞典 42 長崎県「有家村(近世)」
  2. ^ 有家村のうち東筋または東方と称した区域。現在の有家町尾上・山川・蒲河の各名にあたる。
    (角川日本地名大辞典 42 長崎県「有田村」)
  3. ^ 「くまた」と読む。有家村のうち西筋または西方と称した区域。現在の有家町久保、および西有家町龍石・須川・長野・里坊の各名にあたる。
    (角川日本地名大辞典 42 長崎県「隈田村」)
  4. ^ 有家町村ともいう。有家村のうち中通または中と称した区域。現在の有家町小川・中須川、および西有家町慈恩寺・見岳の各名にあたる。
    (角川日本地名大辞典 42 長崎県「有家町村」)
  5. ^ 長崎縣告示第五百八十五號 南高来郡東有家村を有家町と為すの件 長崎県公報 大正15年12月21日付
    ※告示では「大正十六年一月一日ヨリ施行」とあるが、告示日である12月21日は改元の4日前であったため、上記のような表記となっている。
  6. ^ 読みは「こがわ」。
  7. ^ 「尾之上」「尾ノ上」とも表記された。
  8. ^ 読みは「かまが」。

関連項目 編集

外部リンク 編集