李 東輝(り とうき[1]、イ・ドンフィ、1873年6月20日 - 1935年1月31日)は、朝鮮独立運動家社会主義者は誠斎。

李東輝
各種表記
ハングル 이동휘
漢字 李東輝
発音: イ・ドンフィ
ローマ字 Yi Dong-hwi
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生涯 編集

咸鏡道端川に下級役人の子として生まれる。武官学校朝鮮語版を出て安昌浩啓蒙思想に感化、新民会西北学会などに参加した。若年より開化運動に取り組み、名声を得る。鎮衛隊水原歩兵大隊隷下の江華分遣隊長[2]であった1907年8月9日、日本により韓国軍解散命令朝鮮語版が出されると、これに反発した部下の延基羽朝鮮語版副校・池弘允副校・劉明奎朝鮮語版参校らが蜂起する[3]。李は直接参加してはいなかったものの、以前より反日集会を開いていたため逮捕された。1911年105人事件にも関与し、その後満州シベリアへと亡命する。朝鮮独立運動の指導者として活動するも、ウラジオストクにて住民煽動の罪により投獄された。

ロシア革命で恩赦を受け、共産主義思想に共鳴すると労農ロシアとの連帯を掲げ、1918年にハバロフスク韓人社会党を組織した。韓人社会党はその後上海へ拠点を移し、1921年高麗共産党(上海派)[4]となっている。1919年三・一独立運動後は大韓民国臨時政府に参加し、初代軍務総長、上海での合同時では初代国務総理副大統領などの要職を歴任した。1922年コミンテルンワシントン軍縮会議に対抗して開催した極東諸民族大会に朝鮮代表の一人として出席するなど、労農ロシアと上海臨時政府をつなぐパイプ役として外交の辣腕を振るっていたが、ソ連からの独立援助資金をめぐる保守派との対立過程において引責辞任を余儀なくされる。

上海臨時政府との関わりを絶った後はシベリア在住朝鮮人社会の長老的存在として、民族集団をまとめあげた。1935年インフルエンザのためウラジオストク近郊で死去した。

独立後、大韓民国政府は李東輝に建国勲章を授与した。現在も、南北朝鮮両国において尊敬されている。

脚注 編集

  1. ^ 「李東輝」”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 2022年7月13日閲覧。
  2. ^ “民軍が一体になった江華島蜂起を記憶する(민(民) 군(軍)이 한몸이 된 강화도 봉기를 기억하다)”. 江華ニュース. (2013年7月2日). http://www.ganghwanews.com/news/articleView.html?idxno=1372 2017年10月6日閲覧。 
  3. ^ 新編韓国史 近代 43巻国権回復運動” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2017年10月5日閲覧。
  4. ^ 金哲勲・呉夏黙らがロシアで組織したロシア共産党高麗部、のちの高麗共産党(イルクーツク派)との区別のための呼称

出典 編集

関連項目 編集