李 経芳/李 経方(り けいほう、リー・ジンファン、1855年 - 1934年9月28日)は、末の官僚・外交官。字は伯行、号は端甫安徽省廬州府合肥県磨店郷出身。李鴻章の弟李昭慶の子で、同治元年(1862年)に伯父李鴻章の養子となる。

李経方

略歴 編集

光緒3年(1877年)から天津直隷総督衙門で洪汝奎について学んだ。光緒8年(1882年)に挙人となり、李鴻章の下で外交事務を担当した。光緒12年(1886年)から駐英公使の随員としてイギリスに赴いた。

光緒16年(1890年)より駐日公使に就任。光緒21年(1895年3月20日より次席全権として李鴻章と共に下関春帆楼での日清講和会議に参加し、4月17日、講和条約(下関条約)に調印した[1][注釈 1]李鴻章狙撃事件ののちは、療養中の李鴻章に代わって交渉実務の中心となることもあった[2]台湾割譲の全権委員にも任じられ、6月2日基隆沖に停泊していた日本船「西京丸」上で初代台湾総督樺山資紀との間に台湾接受の手続きを行った[3][4]。樺山が「何故台湾に上陸しないのか」と問いかけた所、李経方は「上陸すれば台湾住民に暗殺されるだろう」と答えたという。

光緒31年(1905年)に商約大臣となり、光緒33年(1907年)には駐英公使となった。宣統3年(1911年)、郵伝部左侍郎となった。それまで郵政事業は外国人が担当していたが、交渉の結果、李経方が漢人ではじめての郵政総局局長となった。清朝滅亡後は実業家に転向した。

著書 編集

  • 『李襲侯遺集』
  • 『安徽全省鉄路図説』

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 駐日公使を務めた経験をもつ李経方は日本語も流暢で、日本側全権の陸奥宗光とは以前より面識があった。

出典 編集

参考文献 編集

  • 海野福寿『集英社版 日本の歴史18 日清・日露戦争』集英社、1992年11月。ISBN 4-08-195018-0 
  • 陳舜臣『中国の歴史14 中華の躍進』平凡社、1983年4月。ISBN 4582487149 
  • 原田敬一『シリーズ日本近現代史3 日清・日露戦争』岩波書店〈岩波新書〉、2007年2月。ISBN 4582487149 
先代
黎庶昌
駐日清国公使
1890年 - 1891年
次代
汪鳳藻
先代
汪鳳藻
駐日清国公使
1892年
次代
汪鳳藻