東常縁

室町時代中期~戦国時代初期の武将、歌人。美濃篠脇城主。従五位下、左近将監、下野守。室町幕府 奉公衆

東 常縁(とう つねより)は、室町時代中期から戦国時代初期の武将歌人。郡上東氏第9代[1]美濃篠脇城主。官職が下野守だったため一般には東野州(とうやしゅう)と称される。

 
東 常縁
東常縁像
時代 室町時代中期 - 戦国時代初期
生誕 応永8年(1401年)?
死没 文明16年3月16日1484年4月20日)?
別名 六郎(通称)、素伝(号)、東野州、東常縁(とうのじょうえん)
戒名 徳性院殿釋素傳大居士
墓所 岐阜県郡上市大和町牧の木蛇寺・乗性寺遠藤家墓所内
官位 従五位下、左近将監下野
幕府 室町幕府奉公衆
主君 足利義政
氏族 東氏
父母 父:東益之、母:藤原氏
兄弟 氏数安東氏世常縁宗祐 (僧)南叟龍朔正宗龍統
頼数常和胤氏常庵龍崇
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生涯 編集

武将で歌人でもあった東益之の五男。生年は不詳であるが、明応3年(1494年)に94歳であったとする文献から応永8年(1401年)生とする説や、寛正6年(1465年)に59歳であったとする文献から応永14年(1407年)生とする説がある[2]

当初は父益之とも交友のあった冷泉派の歌人正徹に学んだが、東家が代々二条派に属していたことも意識してか、宝徳2年(1450年)12月2日、正式に二条派尭孝の門弟になった[3]享徳2年(1453年)には左近将監に叙せられた。このころ関東享徳の乱が発生、康正元年(1455年)、常縁は幕府の命により下向、嫡流の千葉実胤自胤兄弟を支援し、11月14日の馬加の合戦では勝利を得た[4]

応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱の際も関東に下向していたものと思われる。郡上の篠脇城には兄氏数がいたが、応仁2年(1468年)9月に美濃守護代斎藤妙椿に攻められて敗れ、東家に伝わる和漢書も失われた。妙椿と常縁は和歌を通じた知り合いであり、文明元年(1469年)2月には浜春利の仲介で常縁が妙椿に十首の歌を贈った。妙椿は篠脇城を返還、常縁は郡上に戻り、失われず残っていた東家伝来の『古今集』に奥書を加えた[5]文明3年(1471年)には正月28日から4月8日まで、宗祇に『古今集』の講釈を行った(古今伝授)。この年、大坪基清にも請われて『古今集』の講釈を行っている[6]。文明14年には藤原定家の家集『拾遺愚草』から58首を選び、加注して宗祇に与えた。常縁のその後は資料が乏しく、不明[7]

家集には『常縁集』、歌学書には『東野州聞書』がある。

関連書籍 編集

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ 中世の山城『篠脇城跡』試掘確認調査の成果について 郡上市教育委員会(2021年)2024年1月5日閲覧。
  2. ^ 島津 1994, p. 11.
  3. ^ 島津 1994, pp. 12–13.
  4. ^ 島津 1994, p. 15.
  5. ^ 島津 1994, pp. 17–18.
  6. ^ 島津 1994, p. 18.
  7. ^ 島津 1994, pp. 20–21.
  8. ^ 『日本の古典籍 その面白さ その尊さ』p305反町茂雄(八木書店、1984)

参考文献 編集

  • 島津忠夫 著「東常縁の生涯と文事」、井上宗雄・島津忠夫 編『東常縁』和泉書院、1994年、11-24頁。ISBN 4-87088-696-0