橋本 多佳子(はしもと たかこ、1899年明治32年)1月15日 - 1963年昭和38年)5月29日)は、日本の俳人。本名、多満(たま)。旧姓、山谷。

杉田久女につき句作を始め、虚子、誓子に師事した。「馬酔木」のち「天狼」同人。女性の悲しみや寂寥を詠み、古雅な中に知的な色彩を与えた。句集に『海燕』(1941年)、『信濃』(1947年)など。

略歴 編集

東京市本郷区龍岡町(現・文京区本郷)出身。祖父は山田流家元の山谷清風、父の雄司は官僚、母は津留。菊坂女子美術学校(のちの女子美術大学)日本画科を病弱のため中退。

1917年建築家実業家の橋本豊次郎と結婚。福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区中井浜)に「櫓山荘(ろざんそう)」を建築し移り住んで後、高浜虚子が来遊したことを期に句作をはじめる。杉田久女が俳句の手ほどきをした。 20歳で小倉にて長女・淳子を出産。22歳で次女・国子、24歳で三女・啓子を産む。 1924年樺太北海道北原白秋と共に夫妻で旅行する。同年、四女・美代子(のちの俳人、橋本美代子)を出産。1927年、「ホトトギス」雜詠に「たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏」が初入選。1929年、30歳の時、豊次郎の父・料左衛門の死去にともない大阪・帝塚山に転居する。同年に「ホトトギス」400号記念俳句大会(大阪、中央公会堂)で、久女に山口誓子を紹介される。1935年1月より山口誓子に師事し、同年4月に水原秋桜子が主宰する「馬酔木」の同人となる。1935年5月、豊次郎と上海杭州に旅行。1937年に一家で櫓山荘へ移る。同年、帰阪後に豊次郎が発病し、9月30日に逝去する。享年51。1939年に櫓山荘を手放す。1941年に第一句集『海燕』を発表。1944年に奈良市あやめ池に疎開し、以後はそこに住み続けた。

戦後、西東三鬼平畑静塔秋元不死男らと出会い、戦後俳壇の女流スターとなってゆく。

女性の哀しみ、不安、自我などを女性特有の微妙な心理によって表現した。「白桃に入れし刃先の種を割る」、「ひとところくらきをくゞるおどりの輪」、「乳母車夏の怒濤によこむきに」といった力強い作品も多い。

同時期に活躍した中村汀女星野立子三橋鷹女とともに四Tと呼ばれた。

1963年、肝臓、胆嚢癌により死去。享年64。

櫓山荘跡地は現在「櫓山荘公園」として整備され、建物はないが庭園の遺構や当時の階段などが保存されている。櫓山荘がある櫓山(やぐらやま)は、小倉藩番所があったことに由来する。当時、櫓山荘は小倉の文化サロンとして利用され、さまざまな文化人が訪れた。

著書 編集

  • 第1句集『海燕』(1941年)
  • 第2句集『信濃』(1946年)
  • 第3句集『紅絲』(1951年)
  • 第4句集『海彦』(1957年)
  • 第5句集『命終』(1965年)
  • 橋本多佳子全句集(2018年、角川ソフィア文庫ISBN 4044004129

外部リンク 編集

参考文献 編集

坂口昌弘著『毎日が辞世の句』東京四季出版