武 周(ぶ しゅう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。に仕えた。伯南豫州沛郡竹邑県の人。子は武陔(字は元夏)・武韶(字は叔夏)・武茂(字は季夏)・女子一人(劉芬[1]の妻)。孫は武輔。『三国志』魏志の「胡質伝」が引く『晋書』(著者は虞預)などに記述がある。

武周

南昌侯・光禄大夫
出生 生年不詳
豫州沛郡竹邑県
拼音 wǔ zhōu
伯南
主君 曹操曹丕
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生涯 編集

下邳県令であった時に臧覇から尊敬された。臧覇は自ら武周の宿舎を訪れた事もあったという(「臧覇伝」)。

後、揚州の前線合肥を守る張遼の護軍になったが、ある時に張遼と仲違いを起こした。張遼は武周の代わりとして、温恢の下で治中を務めていた胡質を貰い受けたいと依頼した。しかし胡質は「武周は正しい人物です。将軍は昔、彼の事を尊敬し、口を極めて称賛しておられましたが、今は些細な恨みで仲違いされております。ましてや私のような拙い者では、将軍と上手く付き合えないと思うのです。」と言い、断った。これに悟るところがあった張遼は、再び武周と関係を改善した(「胡質伝」)。

後に武周は、光禄大夫まで昇進した(「胡質伝」が引く虞預『晋書』)。

小説『三国志演義』には登場しない。

子孫 編集

武周の3人の子は幼少の頃から器量があり、郷里で評判があった。武周は同郡出身の劉公栄に対し、子らと面会させて人物鑑定を願い出た。劉公栄は、それぞれと語り合った後で「武陔は宰相の器であり、他の弟2人も高官に昇るだろう」と予言した。

武陔は、劉公栄の予言通り三公の一歩手前まで昇ったが、魏が禅譲によりになると、積極的に職務を履行しなくなり、清廉のまま亡くなったので当時の美談となった。『晋書』に伝が立てられている。

武韶・武茂もそれぞれ晋の高官になった。しかし武茂の母は楊駿の縁者であった事から、八王の乱により楊駿が誅殺されると、その一族の処刑に連座する事になり処刑された。その死去は冤罪として悼まれた。

脚注 編集

  1. ^ 字は含元。