武部六蔵

日本の内務官僚

武部 六蔵(たけべ ろくぞう、1893年明治26年)1月1日[1] - 1958年昭和33年)1月19日[1])は、日本の内務官僚秋田県知事関東局総長企画院総裁心得、満洲国総務長官

武部六蔵

経歴 編集

本籍・石川県。旧加賀藩士長崎県師範学校長兼教授、武部直松の四男として長崎で生まれる。東京府立四中第一高等学校を経て、1918年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し、銀時計を授与された。1916年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年7月、内務省に入り東京府属兼内務属として地方局府県課に配属された。

1919年10月、長崎県理事官・内務部農林課長に就任。以後、福岡県学務課長、内務事務官都市計画局、帝都復興院書記官・同建築庶務課長兼営繕課長、復興局建築部庶務課長、復興局長官官房計画課長、同長官官房文書課長復興事務局文書課長、同計画課長、同庶務課長、兼内務書記官・内務大臣秘書官、内務書記官・大臣官房会計課長などを歴任。

1932年6月、秋田県知事に就任。1935年1月、関東局に転じ司政部長、さらに同総長を務める。1939年1月、企画院次長に就任し、同総裁心得を務めた。1940年7月、満洲国国務院総務長官に就任し、1945年8月の終戦で廃官となるまで在任。

1945年9月、シベリア抑留となり、1950年7月、戦犯容疑で中華人民共和国に引き渡され撫順戦犯管理所に収容された。1956年、瀋陽特別軍事法廷で満洲国戦犯として禁錮20年の判決を受けるが満期前に釈放。

脳軟化症を病み半身不随の身を圧して1956年7月に帰国が叶った。

栄典 編集

親族 編集

関連文献 編集

  • 『武部六蔵日記』田浦雅徳古川隆久、武部健一編、芙蓉書房出版、1999年
  • 武部健一編『武部六蔵昭和三年滞欧日記』私家版、2006年
  • 古川隆久『あるエリート官僚の昭和秘史 - 「武部六蔵日記」を読む』芙蓉書房出版、2006年

脚注 編集

  1. ^ a b 武部六蔵』 - コトバンク
  2. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

参考文献 編集

  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
  • 金源 『撫順戦犯管理所長の回想』桐出版、2020年。

外部リンク 編集

公職
先代
大野緑一郎
  関東局総長
第3代:1936 - 1938
次代
大津敏男
先代
星野直樹
  満洲国総務長官
第7代:1940 - 1945
次代
廃止