殤公(しょうこう、紀元前?年 - 紀元前547年)は、の第26代君主。穆公の孫で姫黒背の子。『史記』での諱は(しゅう)だが、『春秋左氏伝』では(ひょう)と表記している。

殤公 姫秋
第26代公
王朝
在位期間 紀元前558年 - 紀元前547年
都城 帝丘
姓・諱 姫秋(剽)
諡号 殤公
生年 不詳
没年 紀元前547年
姫黒背

生涯 編集

穆公の孫として生まれる。

献公5年(前572年)冬、献公は公孫秋(子叔)を魯へ遣わした。

献公18年(前559年)4月、大夫孫林父(孫文子)が献公を攻撃して衛から放逐した。孫林父は献公の弟(もしくは従弟)である公孫秋を立てて衛君(以降は殤公と表記)とした。放逐された献公はへ逃れ、聚邑に住まわせてもらった。こうして孫林父と甯殖(甯恵子)は衛の相(しょう:宰相)となり、諸侯の命を聞くこととなった。

殤公2年(前557年)3月、殤公は小邾の要人たちと溴梁で会合し、盟を結んだ。6月、甯殖は鄭・晋・魯・宋の要人たちと会合し、を攻撃した。

殤公3年(前556年)春、大夫の孫蒯(孫林父の子)は国境を越えて曹隧(曹の地)で狩りをし、重丘(曹の邑)で馬に水を飲まそうとして釣瓶を壊してしまった。それに対して重丘の人が彼の父を罵ったので、その夏に衛の石買と孫蒯は曹を攻撃し、重丘を占領した。

殤公4年(前555年)夏、昨年の件で曹が同盟国である晋に訴えたため、晋は石買と孫蒯を捕えた。10月、殤公は晋・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・・薛・杞・小邾の君主たちと魯済(魯の地)で会合し、ともに斉を包囲した。

殤公5年(前554年)夏、孫林父が衛軍を率いて斉を攻撃した。

殤公6年(前553年)6月、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと会合し、澶淵(衛の地)で盟を結んだ。この年の冬、甯殖が卒去し、その後を子の甯喜(甯悼子)が継いだ。

殤公7年(前552年)冬、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾の君主たちと商任(晋の地)で会合した[1]。このとき、斉の荘公と殤公が不敬のふるまいをしたため、晋の大夫である羊舌肸(叔向)に注意された。

殤公8年(前551年)冬、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾の君主たちと沙随(宋の地)で会合した[2]

殤公9年(前550年)秋、斉が衛を攻撃してきた。

殤公10年(前549年)秋、殤公は晋・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと夷儀(衛の地)で会合し、ともに斉を討とうとしたが、洪水に遭って勝てなかった(朝歌の戦い)。

殤公11年(前548年)5月、殤公はふたたび晋・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと夷儀(衛の地)で会合し、斉を攻撃した。その秋、斉との和約が成立し、諸侯は重丘で盟を結んだ。そのころ、衛の先君である献公が夷儀に入った。

殤公12年(前547年)、先君の献公が何度か甯喜に帰国を求めたため、2月に甯喜と右宰の穀は政敵である孫一族を攻撃し、殤公と太子の角を殺して献公を迎えた[3]

脚注 編集

  1. ^ この会合では欒盈をかくまわないことを相談し合った。
  2. ^ この会合では欒盈を閉じ込めることを話し合った。
  3. ^ 『史記』では「孫林父が甯喜に敗れて晋に出奔すると、晋の平公に献公の復位を求めた。これを聞いた斉の景公も献公と共に晋へ赴き、献公の復位を求めた。そこで晋の平公は衛を攻撃して殤公と甯喜を捕え、献公をふたたび衛君の座に就かせた。」とあり、殤公が殺されたとは書いていない。

参考資料 編集