洪亮吉

1746-1809, 清の官僚、思想家

洪 亮吉(こう りょうきつ、1746年 - 1809年)は、中国代の官僚・思想家。君直稚存。号は北江、晩年は更生と号した。もとの名は常州府陽湖県の出身。本貫徽州府歙県

洪亮吉

略歴 編集

1790年進士となり、翰林院編修・国史館編纂官・貴州学政を歴任した。1796年に中央に呼び戻されたが、上書が嘉慶帝の怒りにふれ、イリ地方に流された。1800年に赦免された後は、郷里で著作に専念した。

洪亮吉の一生の関心は民衆の労苦の改善にあり、汚職の改善を訴えたことや、鬼神の存在を否定し迷信を排斥したことが有名である。

史学地理学訓詁学にも成果をあげ、また詩人としても知られている。

人口論 編集

洪亮吉は『治平篇』という著作の中で中国の人口増加について述べている。清朝は人口が急激かつ大量に増加した時代で、1651年から1661年の間では1億ほどだった人口が、1785年から1791年の間では3億に達している。洪亮吉は田地の増加が人口の増加に追いつかないことを述べ、「田地は常に不足し、戸数は常に余っている」と述べている。人口問題に関心がなかった当時、この問題の重大性に気づいた彼の慧眼がうかがえよう。

洪亮吉の人口論は、偶然にもトマス・ロバート・マルサスのそれと内容が符合していたが、彼の『治平篇』は1793年に完成しており、マルサスの『人口論』の完成の5年前のことであった。

著作 編集

  • 『巻施閣詩文集』
  • 『附鮚軒詩集』
  • 『更生斎詩文集』
  • 『北江詩話』
  • 『春秋左伝詁』

関連項目 編集