玉真公主(ぎょくしんこうしゅ)は、睿宗の娘で、玄宗の同母妹。字は玄玄、号は持盈。別号は九仙媛。若くして出家し、道士となった。

李持盈
続柄 睿宗第9皇女

称号 道号:玉真万華真人
身位 県主→公主→出家(公主の号を返上)
出生 天授2年(691年
死去 宝応元年(762年
(享年72)
埋葬 青城山
父親 睿宗
母親 竇徳妃
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経歴 編集

睿宗竇徳妃の娘として、天授2年(691年)に生まれた。同母兄に後の玄宗となる李隆基、同母姉に金仙公主がいる。はじめは、隆昌県主に封じられたが、後に玉真公主に封じられた。景雲2年(711年)、金仙公主とともに出家し、道士の史崇玄の弟子となり、同じく道士となり、玉真女冠観が長安の輔興坊に建立された。先天元年(712年)、出家の儀式を行う。この時、道士最高位の上清玄都大洞三景師を授けられる。開元元年(713年)、史崇玄の背景にいた叔母の太平公主が政変で自殺し、史崇玄が誅されたため、この後は玄宗のもとに道教を指導した司馬承禎らの弟子となる。玄宗の命で、王屋山に隠棲した司馬承禎のもとに赴き、道教の儀式を行うこともあった。

開元17年(729年)、宇文融の失脚に関わる。開元22年(734年)頃に張果との婚姻話が玄宗によって持ちかけられたが、張果は断っている。また、道教の経典や儀礼関わる事業にも携わり、女性道士の統括を行った。天宝元年(742年)、道士の元丹丘とともに、詩人の李白と会見した。李白を推挙したため、李白は翰林供奉に就任している。天宝2年(743年)、玄宗の命で、譙郡に赴き、老子の廟を建てている。往路で名山である華山に寄り、帰路に嵩山にある太室山・王屋山に詣で、太室山で焦静真、王屋山で胡先生という高名な道士に会い、道教の儀式を行っている。この時に、玉真万華真人という称号を得て、日照りに雨を降らしたと伝えられる。玄宗が官僚とともに、彼女の山荘を訪れることが度々あった。

天宝3載(744年)、公主の号を去り、封地を返上することを求める。玄宗は1度目は許さなかった。しかし、重ねて「私は高宗の孫、睿宗の娘、陛下の同母妹です。天下の人は賤しいものとはしないのに、これ以上、公主の号がいりましょうか? 封地があって、はじめて貴いものと言えるのですか? 私の封地を国にいれることができれば、寿命を10年延ばせるのです」と述べたため、玄宗は彼女の意図を悟り、許可した。

天宝14載(755年)、安史の乱が勃発した後、蜀州の青城山に逃れ、修行をする[1]

玄宗が安史の乱後に、長安に帰還した後も宮中に出入りし、その左右に侍した。ともに侍した高力士らが流された後も、ただ一人侍し続けた。玄宗の死後も生き、宝応元年(762年)に死去した。墓は青城山につくられた。

金仙公主 編集

永昌元年(689年)に生まれた。玉真公主の同母姉。はじめは、西城県主に封じられたが、景雲元年(710年)に金仙公主に封じられた。景雲2年(711年)、道士の史崇玄の弟子として道士となり、金仙女冠観が長安の輔興坊に建立された。華山にも道観を持っていたと伝えられる。開元20年(732年5月10日洛陽にて死去する。

脚注 編集

  1. ^ 玄宗もまた、青城山に逃れてきている。

伝記資料 編集

参考文献 編集