王 固(おう こ、513年 - 575年)は、南朝梁からにかけての政治家は子堅。本貫琅邪郡臨沂県

経歴 編集

王琳と義興昭長公主蕭令嫕(南朝梁の武帝の同母妹)のあいだの子として生まれた。南朝梁の武帝の外甥として莫口亭侯に封じられた。秀才に挙げられ、秘書郎を初任とした。太子洗馬に転じ、東宮の記録をつかさどった。生母が死去したため、辞職して喪に服した。喪が明けると、丹陽尹丞に任じられた。

侯景の乱が起こると、江陵に逃れた。湘東王蕭繹に仕えて相国戸曹属となり、記録をつかさどった。まもなく西魏に対する使者をつとめた。承聖元年(552年)、太子中庶子に転じた。まもなく貞威将軍・安南長史・尋陽郡太守に任じられた。承聖3年(554年)、西魏の侵攻により江陵が陥落すると、王固は鄱陽におもむき、兄の王質に従って東嶺を越え、信安県に入った。紹泰元年(555年)、侍中として召されたが、就任しなかった。

南朝陳の永定年間、呉郡に居を移した。天嘉2年(561年)、建康に入り、国子祭酒に任じられた。天嘉3年(562年)、中書令に上った。天嘉4年(563年)、また散騎常侍・国子祭酒となった。この年、王固の娘が皇太子妃として迎えられた。天康元年(566年)、廃帝が即位すると、侍中・金紫光禄大夫の位を受けた。当時は安成王陳頊が政権を専断していたが、王固は廃帝の外戚として、密旨を受けて活動した。ことが陳頊に漏れると、処刑されるところだったが、陳頊は王固が兵権をもたず、身ぎれいで名声も高いことから、免官して禁錮するにとどめた。

太建2年(570年)、招遠将軍・宣恵豫章王諮議参軍となった。太中大夫・太常卿・南徐州大中正に転じた。太建7年(575年)、在官のまま死去した。享年は63。金紫光禄大夫の位を追贈された。は恭子といった。

子の王寛は、司徒左長史・侍中に上った。

人物・逸話 編集

  • 王固は仏教を篤く信仰して、生母の死後は終身の菜食を守った。夜に座禅を組み、昼に経典を読む生活を送った。
  • 王固が西魏に使いしたとき、西魏の人は饗宴を開いて王固をもてなした。1匹の羊を殺そうとしたところ、その羊は王固の前で拝跪した。また昆明池で宴が開かれた。西魏の人は南人が魚を嗜むと聞いていたので、網を張って魚を捕ろうとしたが、王固が仏法をもって呪したため、1匹も捕ることができなかった。

伝記資料 編集