王 雄(おう ゆう、507年 - 564年)は、中国西魏から北周にかけての軍人は胡布頭。本貫太原郡。太原の王氏という漢人の名門を称しているが、字は胡布頭といい、漢人らしくない名を持っており(漢人の字は二字が普通)、太原王氏を仮託しているとみられる[1]

経歴 編集

王崙の子として生まれた。530年賀抜岳に従って関中に入り、征西将軍・金紫光禄大夫に任じられた。534年孝武帝が関中に入ると、王雄は都督となり、臨貞県伯に封ぜられた。535年、爵位は公に進んだ。武衛将軍となり、驃騎将軍を加えられ、大都督に進んだ。まもなく儀同三司の位を受けた。開府儀同三司に転じ、侍中を加えられ、岐州刺史として出向した。武威郡公に進み、大将軍となり、行同州事をつとめた。551年、王雄は軍を率いて子午谷に出て、南朝梁の上津・魏興を包囲した。552年、これを落とし、その地に東梁州を置いた。まもなく東梁州が再び叛くと、王雄はまたこれを討った。554年、可頻氏の姓を賜った。557年、北周の孝閔帝が即位すると、少傅に任じられ、柱国大将軍に進んだ。559年、庸国公に進み、万戸の邑の封を受けた。まもなく都督涇州諸軍事・涇州刺史として出向した。

564年、晋公宇文護の下で北斉を攻撃した。王雄は病身をおして進軍し、邙山にいたり、北斉の将の斛律光と戦った。王雄は馬を駆って、3人を殺し、斛律光を退却させた。王雄はこれを追撃したところ、斛律光は兵を左右に分散させて、矢を射かけ、斛律光の放った矢が王雄の額にあたった。王雄は馬を抱えて退却し、陣営内で死去した。使持節・太保・同華等二十州諸軍事・同州刺史の位を追贈された。は忠といった。子の王謙が後を嗣いだ。

脚注 編集

  1. ^ 布目潮渢『隋の煬帝と唐の太宗 暴君と明君、その虚実を探る』清水書院〈新・人と歴史 拡大版 27〉、2018年6月11日、34頁。ISBN 4389441272 

伝記資料 編集